教育福島0102号(1985年(S60)07月)-022page
私の未熟な授業に対し、子どもたちの反応は正直です。専門教科は音楽ですが、指示のしかたが不明確であれば、けげんそうな顔で首をかしげたり、「先生わかんね」の声がかかります。私の教材研究の浅さや、発問のしかたの工夫が足りないと、子どもたちは厳しいほどにそれを感じとり、不満を表情に出すのです。つまり、「知りたい」、「やりたい」という子どもの欲求に、私の至らなさから、十分に応えられないのです。そんな時、自分が情けないやら、子どもたちに申し訳ないやらで、自己嫌悪に陥いることもしばしばです。でも、一生懸命に話を聞いたり、練習に取り組んだりしている子どもたちの姿を見るたびに、「もっと勉強して、いい授業をしなくては」と、いつも思うのです。
一クラス二十名たらずの子どもたちですが、いろいろな個性をもった人間の集りです。一時間の授業をしても、子どもによって、受け止め方や理解の度合が異なります。音楽においては、理解度の他に技術の差も顕著に現れてきます。できない子どもにとって、歌うことやリコーダーを吹くことは苦痛かもしれません。でも、歌うこと、音楽を演奏することについては、それぞれ興味もあり、実際にやってみたいと思っている子どもが多いようです。そんな子どもたちの興味・関心を引き出し伸ばしてやることが、教師となった私の役割の一つだと思うのです。そのためには、私自らいろいろな事柄に関心を持ち、積極的に研究を深めていく必要があります。それによって、自分自身を高め、さらに、子どもたちの成長を助けることにもつながっていくものだと思います。
昭和の山々が、日ごとに変化する自然を見せてくれるように、子どもたち一人一人も、毎日新しい側面を私に見てせくれます。人間としても、教師としても未熟ですが、子どもたちを若木に例えるならば、私は豊かな土を持った山のような存在になりたい、そんなことを思う、今日このごろです。
(昭和村立昭和中学校教諭)
学社連携の中で
田中 実
二年前の五十八年四月、希望にもえて山あいの里、白根小学校に着任した。
県内最北端の町梁川、またその北端宮城県境に接する白根地区であった。この地については着任前より存じており、特に、第七、八回と連続してオリンピックに出場したマラソン選手、三浦弥平氏の生誕の地であり、スポーツの盛んな地区であったので、何となく親近感を持って着任したのだった。
地区をあげての歓迎会、歓迎のことばを恐縮しながら拝聴、まず体育協会長さんとの初対面、「事務局をお願いします」保育所長さんとの初対面、「総務会計をお願いすることになってます」婦人会長さんとの初対面、「総会や事業の折にお世話になります」そして公民館長さん「諸学級の折に講師を依頼します」等々……。
自分に課せられた中核的職務としての校長補佐、校務整理、直接間接の児童指導、諸機関との連絡調整、はたまた、特に本校特有の飲料水不足からくる水資源の管理にとはいまわりつつも、学校教育の推進に主力を注ぎ、さちに地域との連携にもと、夢中で過ごした二年間であった。
幸いにも、着任前年に社会教育主事講習受験の機会を与えていただいており、浅学ながらも学校教育中心の教育観から社会教育の意義、機能を深めた学社連携の重要性を理解しはじめておった時期でもあったので、PTA、体育協会、保育所、婦人会、公民館等の諸活動の中に意欲を感じて参加しながら、学校教育の中に生かしたい期待感を持って推進していけたのかも知れない。
三年目の現在、前年度の活動に反省を加えながら新たな気持ちで職務にあたっているが、地域の教育課題や本校の重点課題を考えた時、学社連携の中での問題点も多く感じられる。
例を児童の健全育成という目標からみたPTA活動にしぼって考えてみても、次の三点があげられる。
(1) 学校及び家庭における教育の理解とその振興活動
(2) 児童生徒の校外における生活の指導活動
(3) 地域における教育環境の改善
等についての促進活動の疎外要因は、山あいの里にも多くなっている。
(1)については、父親の副業化、母親の就業化が家庭における教育の分担と協力活動の時間不足をきたし、(2)についても、活動のスポーツ化が中心で訓練を伴う健全育成の不足がそれである。
しかし、日々成長を続ける児童生徒の人的な教育背景を思う時、手をこまねくことは許されない。現状からの一歩前進を志向しながら、学校教育の中に、そして、自らの発達課題を正しく理解し活動する社会教育団体の中に、山あいの里にふさわしい学社連携の姿を求めて努力している昨今である。
(梁川町立白根小学校教頭)