教育福島0103号(1985年(S60)08月)-026page
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まった。学級のほとんどの男子生徒が人並みはずれた腕力の持主である彼の暴力を受け、怪我をさせられている。彼の心には、やさしさと残忍さが同居していたとしか思われなかった。それでも、女の子にはやさしく慕われていたものである。
これらの恵まれない、すさんだ子どもたちに少しでも暖かい家庭生活の雰囲気を味わわせたいと思い、コーヒータイムや、おやつの時間を設けてみた。デパートでの買い物なども楽しい思い出であった。幸い、大型免許を所持していたので、十五人乗りのマイクロバスを購入したのもこの頃であった。社会科見学や野外学習、スポーツ活動等と、彼等の生活領域、学習領域はたちまちひろがっていった。学級独自の行事もできるだけ多くとり入れ、これらを生活単元の核として学習を進めていった。もちろん、単なる思いつきや、子どもたちのご気嫌取りだけでは学習は成立するものではない。野外活動の時の子どもたちは教室ではみられない生き生きとした活動をするのである。これらの活動を通して、子どもたちの間に暖かい人間関係が生まれ、豊かな人間性が培われていったのではないかと思う。
養護教育の道は曲がりくねったぬかるみであったかもしれない。しかし、今は義務制が施行され、教育関係のみでなく、地域社会の理解も深まり、指導体制も整ってきている。本県でも教育史上に着々と立派な足跡を残しつつあることは大変喜ばしい。将来ともに養護教育の益々の伸展を祈ってやまない。
(棚倉町立棚倉中学校教諭)
「あいさつ」について
藤田信正
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「挨拶のないところに人と人とのふれあいはうまれません。友情も思いやりもうまれません。感謝の心もわきません。挨拶がなければ、八と人とは素通りです。心のかよい合いは挨拶からです。ここでは挨拶を特に大切にします。海浜青年の家は"挨拶の家"”も言われています。みなさん、元気いっぱい明るい返事や挨拶をかわしましょう」
これは、青年の家における入所時のオリエンテーションで、所長はじめ、私共が毎日のように口にする言葉である。そして、研修に参加した純真な小学生や、照れ気味の中学生、また、たのもしい青年諸君が「こんにちは…」「こんばんわ…」などと明るい声をかわしているのを聞くと、心が晴れやかになってくる。そこには参加の喜びと活動意欲があふれ、瞳が輝いてみえるからである。
「あいさつ」には、さまざまな言葉やしぐさがあるが、その態度に謙譲さと、響きにさわやかさが備われば最高であろう。そういう人に出会うと、相手の心の豊かさ、人間の大きさに心から感じ入ってしまう。
それほどでない間柄であっても、お互いが相手を本当に認め合い、受入れ、はげまし、思いやることから発生する言葉であれば「しっかりがんばってください」「よろしくお願いします」というような気持ちになるのは至極当然のこととなる。
「挨拶」の字義をみると「ひらく」「ちかづく」「進む」などの意味を持つ。挨拶をきっかけとして、正に「胸襟を開く仲」になりたいものである。
学校教育や社会教育・また家庭教育においても、一見簡単に見えることや単純な実践が非常に重要であることを私共は意外に見逃しやすい。
先般の臨時教育審議会の答申内容でも、今話題の“個性重視の原則”と同時に“基礎・基本の重視”がもりこまれている。正に基本を身につけることは、従来からの教育の出発点であり核になるものである。その意味で、学力充実への基本も大切であるが、生活態度に関する基本も大切に考えたいものである。
ある本に「挨拶は背骨で示せ」と書かれてあった。勿論、ただやればいいというのではなく、心のこもった挨拶を身体で示せ…ということである。今まで御指導をいただいた人達の多くが実に姿勢正しく、腰の低い礼をされているのを拝見し感服することが多かった。うらやましささえ感じてきた。「挨拶ができる」それは、集団の中の一員であることの証しであり誇りでもあると思う。挨拶が絶えたとき、人は集団から孤立し、人間関係からはずれていく。
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▲親と子の海浜のつどい(県海浜青年の家)
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