教育福島0106号(1985年(S60)11月)-053page

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一枚の写真を追って

−歴史分野写真資料紹介−

県教育庁文化課文化施設整備室では、県立博物館建設準備のため、展示資料学術調査、滅びゆく伝統技術復元調査、個人所蔵のコレクション調査と併行して、展示計画に沿った資料の所在調査、収集調査、出品確認調査、解説貸料謂査を常時継続的に実施してきた。今月は、これらの中から、歴史分野の写真資料三点を紹介したい。

●佐野理八(一八四四〜一九一九一)は、豪商小野組の東北七国総支配人として来県し、明治六年(一八七三)、霞ヶ城跡に、洋式製糸機械による二本松製糸会社を設立し、初代社長となった。のち明治十九年(一八八六)、宮城県金山村に金山製糸場を設立、県内外の製糸業の近代化に貢献した人物である。

▲佐野理八(1844〜1919年)

▲佐野理八(1844〜1919年)

●岩淵修三(一八五四〜没年不詳)は、白河市岩淵兵之右衛門の五男で、幼名を専七郎といった。兵之右衛門重質は、明治四年(一八七一)創設の小野組築地製糸所に男女二名を派遣し、研修させ、明治六年(一八七三)白河製糸会社を創立した。修三は、父とともにその経営にたずさわり、明治十三年以来社長の職にあった。彼はのち、第四回内国勧業博覧会審査員、宮崎県高等養蚕伝習所長、東京蚕業講習所生糸出納主任その他を歴任、国内養蚕製糸の技術畑で活躍した人物である。

▲岩淵修三(1854〜没年不詳)

▲岩淵修三(1854〜没年不詳)

●美正貫一郎(一八四四〜一八六八)は、高知藩出身で、戊辰戦争の際、断金隊を組織し、各地に転戦し、高木(本宮町)からの阿武隈川の渡河中、銃弾にたおれた。

岩淵修三肖像写真は、白河市石岡清治氏から、美正貫一郎肖像写真は、遺族川口滋代氏より本宮町誓伝寺に贈られたものを誓伝寺から、佐野理八肖像写真は、東京都佐野聯一氏から提供を受けたものである。特に佐野聯一氏を尋ねあてるまでには、福島、郡山、白石、丸森、宇都宮の研究者、公民館長、遺族など実に十数人のお世話になった得がたい一枚である。

その人物の歴史上の評価とは別に、一枚の古写真は、その人物の存在を立証し、しかも風貌容姿をリアルに説明してくれる優れた資料である。美正貫一郎肖像写真は、憂応四年(一八六七)に、わが国写真史上の草創期の写真師の手になった貴重な資料である。

この資料は、総合展示「近・現代」の「戊辰戦争」および「日本の花形産業」のコーナーで展示する計画である。

県立博物館では、出土品、美術作品、民具などのほかこうした古写真も収集し、文化財として大切に保存する考えである。

▲美正貫一郎(1844〜1868)

▲美正貫一郎(1844〜1868)


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