教育福島0108号(1986年(S61)01月)-031page
す。このH君が家庭の都合で退学してしまいました。何か複雑な事情があったらしく、随分説得してみましたが、結局やめて東京に就職して行ってしまいました。その後の彼の消息はまったく聞きませんでした。二十年たって私はK工高定時制に勤めていました。その年の入学式のことです。二十名の入学生の中にH君の姿を見つけました。後で聞いたらH君は上京後二、三年して故郷恋しくなり、帰郷して私立A商高に入学したが卒業までこぎつけることができず再度上京、十数年間東京で生活を送った後またまた帰郷、今度は昼間働いて夜定時制高校に通うことにしたというのです。H君はすでに三十六歳になっており、まだ独身とのことでした。私は二十年を経て再びH君を受持つことになった出会いの不思議さに少なからず感動しました。ところがもっと驚いたことがあったのです。同僚のu先生がA商高に勤めていた時、H君を担任していたというのです。これを聞いた時は本当に空いた口がふさがらぬ思いがしました。H君はK工高も中退し現在私との間は音信不通です。
本宮町の小学校にいた時、昭和十八・九年生まれの子どもたちを四年、五年、六年と担任しました。一年置いて二本松市の中学校に転勤しました。担任は中二でした。これも昭和十八・九年生まれです。二年三年と二年間持って、F高校に転勤したら高一の担任を命ぜられました。一、二、三年と持ち上がりました。結局私は昭和十八・九年生まれの生徒を計八年間担任したことになります。この年度の生徒たちには大げさな言い方をすれば運命的な愛着を感じています。この子たちの大半は京浜方面に就職して行きました。高度経済成長のさ中、よく働き、結婚し、子供を育て、家を建て一昨年「年直し」を迎えました。この「年直し」を待つこともなく、かつての女生徒が三人も病に倒れ不帰の客となっています。いずれも真面目で素直な良い子でした。人生の無常をしみじみ感じています。
(県立郡山商業高等学校教諭)
台所の教育談義
東条壽美子
「お遊戯会でね、海賊の劇をやるんだよ」と、幼稚園の娘。「あのね、学年で球技大会やるの。今日はすごく大きい学級旗作ったの」と、小六年の娘。「それからね…」「そしてね…」共働き家族である我が家は朝から忙しい。勢い一日の終わりの夕食時はそれぞれの話したいことを先を争って言い始める。ひとしきり子どもたちが話して食べ終えると、「おい、この班ノート読んでみろよ」「A子がね…」と、今度は私たちの番である。学級や授業のこと、そして生徒指導のことなど……。
なかでも毎日のように話題に上ったことがあった。それは私が担任していた問題生徒についてである。彼女は二・三年と担任した生徒で、学力に優れ、運動部でも目立った活躍をしていたが、あれよあれよと思う間に天地の変貌をしてしまった。思春期障害症≠ツまり思春期をうまく乗り切れなかったと知人紹介の医師は言う。「今日ね、班編成替えをしたの。規律班長が彼女を選んだのだけど、彼女は怒って帰ってしまったの」「規律班は彼女にとって重荷だよ……それはそうさ…」問題生徒の指導に不安を覚えての毎日であったことから、こうして話し合うことによって、自分のやり方に勇気をもてることもあり、これは?と気づき反省する点も多かった。そして、このことは翌日の指導の活力にもなったのである。
どうにも苦悩を隠し切れない姿で彼女の父親は何度か私の家を訪れた。台所談義で十分承知の主人に私は担任のお株を取られたような形でお茶など入れたりした。というのも、進学めざして今までの分を取り戻したいから勉強を教えてほしいというまでになって、彼女は夜通ってきたが、教科の関係上主人が教えてくれたからでもある。そしてなんとか立ち直りかけたが十分でないまま卒業させてしまった。卒業後も父親から一ヶ月に一度は近況報告がある。それは電話であったり来訪であったりする。今は落ち着いて働いていると言う。決して指導が成功したわけではない。むしろ、いつまでも私の心の痛みとして残っているのであるが、今でもこうして相談をかけてきてくれたりするのは嬉しい。これも台所談義のおかげであろうか。
共働きを始めて十三年、二人の子どもにも手がかからなくなった。冬のしんしんと雪積む夜ふけに、おむつを洗って干したりしていたのが夢のようである。今、教材以外の本を読む時間も増えた。そして、こうして台所の教育談義≠ネるものも心ゆくまでできるようになった。最近の難しい教育事情の中で、ともすれば自信を失いがちであるが、ここで一日の自分の生活を振り返り、自分を見つめることにより、明日また確かな目で生徒を見、そして理解することができると信じるのである。
「ママあ、いつまで台所で話してるの!」
居間から娘たちの呼ぶ声がする。
(須賀川市立第二中学校教諭)