教育福島0108号(1986年(S61)01月)-033page

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の手ほどきをしていた。部屋には、長い裁ち板が並び、その間を物さしを手にもって歩く母の姿が思い浮ぶ。小学生のころ、学校から帰ると、お弟子さんたちに、「大きくなったら何になるの」と、聞かれると、得意気になって「先生になるの」と、いうきまり文句であった。言葉をくずしたことのない母、時折り、父から「小笠原流は通用せん」と、怒なりつけられたことも耳に残っている。母に縫ってほしいという芸妓さんたち、「先生教えて下さい」という声に、幼心に母を誇らしげに思っていた記憶がよみがえってくる。

こうした家庭環境が「先生」という職業にあこがれを持つようになったのか、幼稚園の教師になって二十七年、この道一筋に誠心誠意、幼児教育に努めてきた。

 

A子のお父さんから、「きよう先生が休むから、わたしも幼稚園をお休みすると言い出し、家族を困らせている。休むときには子どもたちにだまって休んでほしい」というひと言。そのひと言が私の幼児に対する態度、姿勢が如何に大切かを教えてくれた。

「ぼく、パイロットになったら、先生を一番先に乗せるんだよ、二番目にお母さんだよ」というS男のお母さんについ最近出会った。「S男の結婚式を楽しみに待ってて下さい」と。

二十年前の教え子からの結婚式の招待状をいただき、過日、石川県加賀市に馳せ参じた。嬉しさとなつかしさで感無量であった。

幼いころからの夢であった幼稚園の教師になり、一生の仕事として勤めることのできる幸せをかみしめるものであるが、卒園式になると毎年、ああもしてやりたかった、こうもしてやりたかったと思う。翌年、反省の上に立って保育指導にあたるが、やはり同じような思いである。しかし、自分自身を見直し、純粋な子どもたちの輝きを、一つ一つ見失わないようがんばっていきたいと思う。

(いわき市立すずかけ幼稚園教諭)

 

ある思い出

棚部茂夫

 

十余年前のことである。

 

十余年前のことである。

梅花かぐわしき春のある日、電話が鳴った。教え子の徳一からであった。「妹の千恵子の結婚が決まりました」「おお、それはよかったなあ。実によかった」

「先生、親がわりをお願いします」

「いいとも、いいとも」

私は、心から喜ぶと同時に、ホッとする気持ちでいっぱいであった。

徳一が、北海道より転校してきたのは、中学二年、妹は小学五年、母は亡く、父は故あって東京方面に働きに出ており、兄妹二人で暮していた。彼らはすべてに耐えた。しかも朗らかそのもの、まさに無心の生き方であり、私は、胸にこみ上げてくるものを抑えきれなかった。兄妹は、中学校を卒業してそれぞれ就職し、この度、妹の結婚式を迎えたわけである。彼等の父親は、あいにく病のため入院中である。その無念さはいかばかりであったろう。家内も、わが子のように、二人の成長を楽しみにしていたのである。

 

結婚式当日、私は、学校から迎えの車で式場に着く。にこにこ顔で迎える徳一に、

「やあ、おめでとう」

と、ともに喜び、私の心は弾んでいた。が−。

「先生、奥さんは……、まさか一人で両親はできないでしょう」

という彼の言葉に

「なんのこった?」

「先生、今日は、ぼくたちの親ですよ」

…あ然……

「そうだ、今日は、親がわりだった。親は、父親と母親二人いるのだ」

徳一からの最初の電話の時、千恵子が…。あの千恵子が…。私は、うれしさのあまり他のことは全く耳に入らなかったのだ。一瞬、目がくらんだ。いずれにせよ弁解無用。大失態であった。すぐ、家内に電話をしたが出ない。あわてる私に、徳一は、

「先生、式がもう始まります」

式に臨み、親族席に着くものの足が宙に浮き、焦点が定まらない。なくてはならない母親の空席。私は、ただただ頭を下げるのみであった。

披露宴は、わが失態など全く知らぬげに盛大に進行していった。しかし、この失態は、宴の終盤まで及ぶ。それは、両親への花束贈呈の際である。もう一度家内に電話を−。出ない。実に困った。思案のあげく、私は、願って新郎方から母親がわりを出してもらった。流れる汗をぬぐいつつ立ちつくしている自分ではあったが、新郎の父親へ花束を贈る千恵子のほほに、とめどなく流れる涙を見たとき、私は、はじめて、心救われる思いであった。

 

子どもを連れて訪れる彼等兄妹に会うたび、家内に叱かられた自分を苦笑しつつ思い出話に花が咲<。

そして、今、この二輪の花は、梅の花のように芳しく思えてならない。

(いわき市立内郷第一中学校教頭)

 

 

 


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