教育福島0113号(1986年(S61)08月)-023page

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随想 ずいそう

 

教え子との出会い

 

教え子との出会い

佐 藤 琢 三

 

いただきました。今日はあの時のお礼をのべたくて千葉からやってきました」

 

「私は五年生の時に転校してきて皆さんの学級に仲間入りさせていただき先生はじめ皆さんに、とても親切にしていただきました。今のような『いじめ』や『暴力』もなく、五年・六年と楽しく過ごさせていただきました。今日はあの時のお礼をのべたくて千葉からやってきました」

先日の同級会のスピーチの中で、こんな転校の時の思い出を話した子が二人いた。私は彼女らの話を聞きながら二十年前をなつかしく思い出した。当時は、四十七人の子どもたちにいつも若さだけでぶつかっていたような気がする。二人とも家庭環境面ではあまり恵まれてはいなかったので、その点で個別に配慮はしていたつもりである。今会ってみて、父親になり母親になった教え子から、人間の心と心のふれあいの大切さを教えられたような気がする。

また、参加者全員がテーブルを囲んだ時、一際立派になったK子の姿に皆は驚いた。一人の男の子が私に話しかけてきた。「先生、私は小学校時代Kさんを相手にしない時がありました。でも今日会って小学校時代のことを謝ってきました」という。確かにKは静かで口数も少なく、他の子には清潔に感じられていなかった。考えてみると、Kにかかわる問題は学校の中でも何度か話したように覚えている。しかし、最近の教育問題のようにならなかったのは、いろいろな友だちや生活があり、交友関係の中でも、お互いに認め合う良さを持っていたためではないかと思う。

学校時代、手の掛った子ども程、先生を忘れないといわれる。私が受け持った中にも、性格は明るいのだが全然勉強しないで手を焼いた子がいた。でも、彼らはどこで会っても気軽に言葉をかけてくる。「オレ小学校時代、先生に世話になったものね」というSは、今は自動車修理工場を経営している。また、勉強の話をすると頭が痛くなると訴えていたTも、ゴムの合羽をつけて立派な漁船員である。知的に優れ高校・大学と進学した子も多くいた中で、このような子どもを私は忘れることができない。

私は教え子と会う度に、自分の教育観を改めて考える機会を与えられるような気がする。個性を伸ばし人間としての生き方考え方を育てていくことが私たちにとって一番大事なことではなかろうか。オートメ化された工場で作られる品物では、一人が手掛けるのは精々一つか二つ、その文明の遺産も使い古されればポイと捨てられる。教育の場は工場と違う。何年過ぎても教え子からは「先生」と呼ばれる。父などは七十歳を過ぎても恩師を「先生」と呼んでいたことを覚えている。教え子に会う度に、自分は満足のいくような教育をしてあげられなかったことを悔む反面、今は立派に成長した彼らに励ましの言葉をかけ、幸福な生活を送ってほしいと祈らずにはいられない。

(いわき市立貝泊小学校長)

 

支えられて

 

支えられて

根本佳子

 

を見つめ、認めたり励ましたりするように心をかけ続けたいと思うのである。

 

“支える” 私は、教育を考える時好んでこの言葉を使う。できる限り、子どもの気持ちを理解し、行為を見つめ、認めたり励ましたりするように心をかけ続けたいと思うのである。

人間は、魂で生きる動物である。子どももまた、一人一人、魂を宿した一人間なのである。表出した行為が、どんなに悲しむべきことであろうと、その背景にある魂の叫びを考えたなら、やはり、支え続けなければならないのは、その人の心である。

しっかり生きようとするエネルギーの原点も、もっともっと伸びようとするエネルギーの原点も、ここにきり存在しないように思える。

担任している子どもたち一人一人が今、その子なりの人生を生きていることを思うと胸の痛むことがある。

自らの選択によらない境遇の中で、

 

 

 


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