教育福島0115号(1986年(S61)10月)-049page

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博物館だより

中世の飯野八幡宮建築復元模型

好嶋庄は、中世奥羽の代表的な荘園である。この荘園は、現在のいわき市平、好間から四倉以北までも含んだ広大な地域を占めていた。名目土は飯野、八幡宮領であったが、実質は関東御領であった、この荘園が文献上に最初に見えるのが、飯野文書の「八幡宮領好嶋庄田地日録注進状写」−元久元年(一二〇四)九月十日−である。ここに「八幡宮御領好嶋御庄」と記されている、この八幡宮が、現在も続いている飯野「八幡宮である。その創建は、文治二年(一一八六)に溯る。すなわち飯野文書「岩城郡八幡宮縁起注進状案」に、この年、石清水八幡宮より御正躰を勧請し、赤目崎見物岡に社殿を建立したとある。ここは、後に、平城が建て、られたところであり、現在でも城跡が残っている。近世初頭鳥居忠政が平城の築城に際して、飯野「八幡宮を現在地に遷座したといわれている。この慶長年間の社殿は、同十九年(一六一四)に焼失したか、直ちに再興に着手して、元和三年(一六一七)に本殿・拝殿が竣功し、順次境内の諸建築か建てられ、寛永末年頃(一六四三頃)には社殿が整えられた。文政九年(一八二六)の「磐城志」に掲載されている境内全図と現状の諸社殿を「比較すると、それほど大きな差異は認められない「磐城志」所載の境内図は、現状を写したものと考えられるのである。しかし現在、八幡宮には一幅の古図が伝えられており、そこに描かれている社殿形態と現状のものとはかなり相違しているのである。古図に描かれている諸社殿の内容は、より中世的といえるものである。古図の社殿は、現在の境内より以前、すなわち中世の景観を描いたものと考えられるのである。そこでこの古図をもとにして、中世の飯野八幡宮の社殿景観を復元してみた。それかこの模型である。

模型を見て気か付かれることは、境内に堀がめぐらされ、中央やや右寄の堀で大きく二つの、区画に分かれていることである。向って左の区画は、本殿を中心として、諸社殿か配置されている。右の、区画は、中央に釈迦塔(三重塔)があり、十王堂、十一面堂なと仏教の堂塔か並んでいる。この境内の諸建築において、神仏混淆の姿がみられるのである。最近、境内の一堂に安置されていたという地蔵菩薩立像が発見され、胎内に明応三年(一四九四)の墨書銘があり、中世の飯野八幡営の具体的資料を一つ加えることができた。

絵図では、建物の正面のみと、側面をも同時に描いているものとかみられる。正面のみを描いたものは、正方形の平面を表わしているものと考えられる。本殿の平面をみると、正面が三間で側面も三間あり、最前列は吹放しの角柱であったと想像される。このような形式は他にもみられ、中世の八幡宮建築の、形式であったことも考えられ、建築史の上からも貴重な資料を提供してくれるのである。具体的な資料の乏しい中世において、一つの神社の境内を復元してみると、当時の建築や信仰なとの形態をより身近に把握することができるであろう。

飯野八幡宮模型

飯野八幡宮模型

飯野八幡宮絵図

飯野八幡宮絵図


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