教育福島0117号(1986年(S61)12月)-006page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

提言

 

より一層の余裕を

 

福島大学教育学部附属教育実践研究指導センター長

 

福島大学教育学部附属教育実践研究指導センター長

渡辺 四郎

 

【筆者紹介】

渡辺四郎・わたなべしろう

大正 十五年 福島県桑折町に生まれる

昭和 十九年 県立福島中学校卒業

昭和二十二年 福島師範学校卒業

昭和二十六年 東北大学理学部卒業

昭和二十六年 福島大学学芸学部助手

昭和四十九年 同教授(教育学部)

昭和五十二年 理学博士(東北大学)

昭和六十一年 福島大学教育学部付属教育実践研究指導センター長

専攻は人文地理学。「東北地方の工業に関する地理学的研究」(学位論文)のほか都市と工業について論文多数あり。著書は「福島県史」「流通と地域」「大系日本福島自然地理」(分担執筆)ほか。なお、現在福島地理学会会長をつとめている。

 

教育現場の一人として経験的な提言をさせていただきたい。

われわれ教壇に立つ者が最も充実感を覚え、湧き立つような喜びと生きがいを感ずる一時は、授業がスムーズに展開し、児童、生徒、学生と自分の呼吸がぴったり合って高まる緊張感と期待の中に終業のベルを聞く時である。また、その反対の時のみじめな挫折感と空しい疲労・淋しさは例えようがない。

日々の授業の充実こそが、自らの喜び、生き甲斐であると共に、それにもまして教師に課せられた第一義務的な責務である。授業の空疎さ、おざなり、低調さは子どもたちに学ぶことの喜びと研究の楽しみを味わわせず、さらにそこに強圧的な学習の強制を伴うならば、それはたちまちにして子どもたちの学校嫌いをもたらし、教師への尊敬と信頼感を失わせ、ひいては非行・暴力へとつながって行くのではなかろうか。

教育界の一つのテーマである「ゆとりある教育」の根源は、教師にとってはしっかりした授業をしたという自信から生ずる気持の余裕にあり、子どもたちにとっては授業が良くわかるという安心感より生ずる心の余裕にあると思う。

授業の充実などとは今更言うに及ばないことであるが、私にこう言わしめる一、二の挿話を申し上げたい。

 

さる日、時刻は夜の八時すぎ、街で若い中学校の先生にばったり会った。「おそいなあ。今帰りかい」「はあ、毎晩です」「何をしているの」「部活です。くたくたですけど生徒が張り切っていますから」若い先生がこんなに遅くまで生徒と一緒に汗まみれに頑張るのは感動的である。

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。