教育福島0117号(1986年(S61)12月)-007page
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しかし彼は社会科の先生である。「授業の用意はこれからするの」「そうです。でも時間もないし、仕方がないから明日は教科書でも読ませようかと思います」。
私は次の日の単調な退屈な授業を思わざるを得なかった。社会科の授業が単なる本読みと何がしかの事項の整理と暗記に終ったであろう。だがこの若い先生を責めるわけにはいかない。彼は意味のある仕事を力一杯しているのだから。私は彼にじっくりと授業の用意をする時間を持たせたい。自由に勉強する時間を与えたい。そうしてこそ眼を輝かすような活気ある彼の授業を期待できるはずである。
このことからしても教師には一定の時間的余裕が何としても必要であると思う。この時間的余裕があってこそ、教師は自らの考えを深め、授業についてはもとより生活指導においても納得できる指導をなし得るのである。やや趣旨の違う立場の発言であるが「教師の最善の能力は、自由な雰囲気のなかにおいてのみ発揮される」(第一次米国教育使節団報告書)のことばが想起される。
私たちの組織する学会(研究団体)の例会は年三回、日曜日に行われるが、この会への家庭を持つ女性の先生方の出席はここ三十年を通してもごく稀、最近は皆無のようである。親しい方に聞いてみると「私には学会に出席したり、専門書を読む暇なんて、正直に言って本当にありません。教科書と指導書などを見るのに精一杯ですから。それに日曜日は私にとって家族と一緒に居られる唯一の貴重な日ですから、とても学会などへは行けません」と。まさにこの通りであろうが、教師である以上は広く周囲を見渡して研修に努め、教養豊かな人間に成長するのが人間性豊かな児童生徒を育成するためにも欠かせない事であろう。
この先生に一段の個人的努力を望むのは無理かもしれないが、何とかして、日々の業務以外の専門書や教養書等を繙き、たまには日曜日の研究会にも出席できるような余裕を是非作っていただきたいとひたすら願っている。
おわりに、私はいま一層の余裕をと希望しながら、教職の勤務条件は民間の一般企業とくらべて、はるかに余裕のあることを充分に理解している。もしも、教師が与えられた余裕の上に安穏に居坐り、漫然と日を過すのであれば、それはまさに自覚の欠除というに止まらず、国民の信託に背く教師としての失格者であると言わなければならない。
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福島大学教育学部付属教育実践センター(略称)の特別教室。視聴覚教材を用いる授業研究に主として使用される。
提言
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