教育福島0120号(1987年(S62)04月)-025page
雑感
谷山春郎
「春は名のみの風の寒さや……」と早春賦の一節にあるが、南国育ちの私にとって今冬ほど春の訪れを待ち焦がれたことはなかった。長くて厳しい寒さの冬に耐え、春の到来とともに梅・桜などが一斉に開花する様は、まさに感動を覚えずにはおられなかった。いつのまにか冬が来て、当然のように春が訪れることに慣れきっていた私の五感は、眠りから覚めたようにさえ感じた。北国、福島の人々には「じーっとがまんできる体質」が昔から脈々と流れていることがあらためてわかった。それゆえに、物事の本質を見据えてから行動できるのだとも思った。新しい物に飛びつきやすく、直線的に熱情的に行動している鹿児島の人々には、事を仕損じることがあるのだとも感じた。教育の場面でも同様のことが言えよう。結論を急ぎすぎ、途中を抜いてみたり、考える場面で、じっくり取り組ませる時間を与えなかったりの授業を展開しているときもあるようである。生徒指導でも結果を急ぐあまり、じっくり腰を据えて気長にねばり強く指導することに欠けていたようにも思う。
よく鹿児島県民は人情が厚いと他県の人々から言われているが、福島県民も負けず劣らず非常に人情味があり、親切で温かい人柄が多いようである。父母が教育熱心であることも共通している。ところが、学校教育の一環であるPTA活動では、福島の方が数段上である。PTAの組織がしっかりしており、日常活動が実にすばらしい。教師と父母が一体感をなしており、しっくりいっている。母親中心のPTA活動が多いなかで、本校では授業参観をはじめ諸PTA活動、行事に父親が積極的に携わっていることが特徴的である。保護者と教師が協力して学校教育の効果をあげている。
鹿児島の生徒たちは遠慮深く、思っていることの半分も言えない点を以前からもどかしくさえ思っていた。それに比べて福島の生徒たちは、私が抱いていたイメージと違い、実に明るくのびのびしており、物おじせず、自分の考え、思っていることを率直に表現できる。また、郡山二中の先生方は実に教育熱心で、時間をいとわず、生徒たちのため、学校教育のために一生懸命がんばっておられることに敬服している。
職員融和のために校長自ら休憩時間、お茶を飲みながら談笑されている姿に接し、教育の原点を垣間見た思いがした。学校教育の荒廃が叫ばれて久しい昨今であるが、我々教師は忙しさのあまり生徒とどれだけふれあい、接しているか考えてみる必要があるようである。生徒の中に飛び込み、肌と肌のふれあいから、心と心のふれあいを高めてみたいと考えている。これからの教育は「心の教育」を論じ、実践なくしてはありえないだろうと思う。私の教育ライフワークとして「心の教育」に取り組んでみたい。
(郡山市立郡山第二中学校教諭 なお谷山教諭は鹿児島県よりの派遣教員である。)
ダイヤモンドの輝き
星 和子
五十九年真夏、全国高校総合体育大会秋田大会二日目、女子四百メートル決勝。五十四秒のドラマがはじまろうとしている。スタンドの縁起のよい場所を選んで立ち、スタートの合図をまつこと数分、無の世界である。観衆のざわめきもなにも耳に入らない。何度も何度も故義父母の戒名を心の中で唱えて手をあわせる。その間のなんと長いことか、全身がふるえて、言葉にならない。
スタートの号砲とともにとびだした六コースのK子の姿しか目に入らない。いい走りだ、勝てる、勝つんだ、と、何かにとりつかれたようにK子と一体になり一点だけを追った。テープをきった。一着だ、夢にまでみた優勝だ。大声で叫ぼうとしたが声がでない。のどがからからになっている。K子の顔を見た。涙でキラキラ光っていた。表彰台の一番上に立ち、真夏の太陽をいっぱいにうけ、ダイヤモンドを体中にちりばめたように見事に輝いていた。三年間の努力によって普通の石ころが、見事に本物のダイヤの石にかわり、輝きを増して一まわりも二まわりも大きくなったのだ。一年前の名古屋大会で惨敗したみじめさ、くやしさが昨日のことのように浮かんでくる。二人で涙か汗かわからぬほど流したくやし涙が、今、五十四秒のドラマを境にして胸から消えさわやかな気分になっていく。
一つの修羅場をくぐりぬけて栄冠をかち得たK子とそのチームメイト、そして私との三年間の苦闘の日々をふりかえってみたい。私自身、陸上競技の魅