教育福島0120号(1987年(S62)04月)-026page

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力にとりつかれて二十数年、いく度もの挫折、勝利をくりかえし過ごしてきたが、何かの迷い、悩みを持ちながらグランドに立つと、それは必ず選手に伝わっていく。指導者である以上、自分自身の強い信念と、どこまでも生徒を信じていく気持をもっていなければならないことを一人一人に教えられてきたような気がする。中学時代は卓球の選手だったK子が、陸上の何であるかもわからないままに入部してきた。私はがむしゃらにただ走らせ、技術指導よりもチームの一員としての自覚を持たせ、仲間づくりを重視し、仲間とわかりあえるまでけんかをさせ、納得させる指導法をとった。また高校時代の競技者にとって特に食生活がいかに大切かを教え、生活をきびしく規制し実行させた。二年生になると、競技に対する意欲も人一倍強くなり、練習量も内容も充実してきたが、だれにも負けたくないという意識から、仲間、あるいは私との衝突もしばしばであった。ことあるたびに隠さず全力でぶつかりあい、腹を立て大声でどなり、他人に当たりちらし怒るだけ怒ってしまうと、ケロッとしてグランドに立つ、そんなことのくりかえしであった。怪我の中での名古屋大会は、運よく決勝に進めたが前日までの疲労に加え、古傷が痛んで足腰が普通どおりに動かなく歩けない状態であった。マッサージ、ハリ、すべてのものを試みてのレースであった。そして敗北の苦しみを、みじめさを、イヤというほど味わわされる結果に終った。だがK子も私もたたかれればたたかれるほどふるい立っていった。K子は運を自分で切り開いていくあるものをもっていたのかもしれない。ベスト八位入りしたK子の前に一筋の光がさしこむように日中米加交歓陸上出場の話がまい込んできた。そして全日本ジュニア陸上、全国選抜合宿と、ありとあらゆる全国レベルの大会に参加する機会に恵まれた。また全日本女子駅伝に出場させていただいたことがフォームの矯正に大いに役立った。三年生になってからは精神的な面での落ちつきもでて衝突もなくなり、技術的にも一層みがきがかかってきた。私の役目は練習量のセーブと調整、それだけであった。そして次々に記録をぬりかえて全国レベルのトップをゆく選手に成長してくれた。K子といっしょに過ごした汗と泥と涙にまみれながらの三年の年月の中で、指導者として、人間としての私の心の中に貴重な財産が残った。それはダイヤモンドのように輝き、一生消えることはないと信じている。いっしょに走り、苦しみ、耐え、勝つことの喜びを味わったすばらしい生徒たちに感謝の気持ちでいっぱいである。その生徒たちは、今それぞれに、ダイヤモンドの輝きを忘れず自分の人生を歩いている。K子もすばらしい仲間たちに支えられ、怪我、挫折を克服しながらオリンピック目ざして元気で頑張っている。晴舞台にK子がユニフォーム姿をみせてくれる日を夢みてこれからも静かに見守っていきたい。

(県立本宮高等学校教諭)

 

喜びの優勝テープを切る(’59高校総体)

喜びの優勝テープを切る(’59高校総体)

 

桜の下で想うこと

 

桜の下で想うこと

二瓶 正浩

 

その日もやはり晴れていた。

 

その日もやはり晴れていた。

昭和五十九年三月三十日。私が学生時代を過ごした東京をあとにする日だった。新幹線リレー号(まだ新幹線は大宮始発の時代だった)の発車を待つ間、見送りにきてくれた何人かの友人の一人がいった。「季節外れだけど、雪でも降れば詩の世界にひたれるのになあ」

別れの瞬間には何故かいつも晴れていた。雨の降りしきる中での別れなどというのはメロドラマか三流映画、でなければ超一流映画だけだろう。現実はその日もただ漫然と晴れていたのである。

時節がら上野駅の16番ホームのあちこちで同じような光景が見られた。学生時代が終わって就職、それに伴なうUターン、状況だけ取り上げれば実に

 

 

 


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