教育福島0121号(1987年(S62)06月)-022page

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親者が大病を患い入院し、お見舞に来たが、急いで来たため、入院病棟がわからず廊下でうろうろしていた時のことであった。N子は、もともと大学進学を希望していたが、高校二年の時、母親(当時、四十二歳)、を肝臓癌で亡くし悲しみの中で進学を断念、「先生、私、病気で苦しんでいる人のために看護婦になります」と言って、高等看護学校に入学したのであった。昭和四十三年卒業以来の出会いである。

「先生、S子さんも外科に勤務しているのですよ」と言いながら、早速入院病棟を調べて案内し、更に、担当の医者に紹介してくれ、お陰で私は病気の説明を聞くことができ、N子の心配りに感謝しながら、その日の帰途についた。

○月○日、患者の十時間に及ぶ大手術が始まった。親族は皆、手術の成功を祈り、沈黙の世界であった。患者が今は生と死の闘いの最中であると思うと、生命の尊厳をあらためて教えられる思いで、じっとしていられない心境であった。そんな時、N子が来て、「先生、大丈夫ですから頑張って」と激励してくれた。数時間後、N子が他の同僚と手術室に呼ばれ入っていった。

親族一同皆不安の一瞬であった。数分後、手術室から出て来たN子は、「先生、患部はきれいに除去されたようです。手術は成功しました。後で担当の先生から説明があります。患者さんが出てくるのは、○時頃になります。先生、本当に良かったですね」と言ってニコニコして私に話してくれた時の感動は、ことばで言いつくせない、一種の神の声を聞くようであった。一秒でも早くと、ちょっとした心配りが私にとっては、まことにありがたく感謝の気持ちで一杯であった。

N子の自信に満ち、いたわりの心と誇りを持って、テキパキと仕事をしている姿に出会った時、高校時代、母親を亡くした悲しみの中から、立派に成長し、逆に私を励まし続けてくれるまでになっていた教え子との出会いは、何にもまして得がたい経験であり、教師になって本当に良かったとしみじみ思ったことであった。

 

N子のような十年前、二十年前の頃とは全く違った成長ぶりに接するにつけ、今の生徒たちのように、多様化している状況にあればあるほど、クラス担任として、共に過ごす時間と、日々の出会いを大切にして、それぞれの個性を尊重し、心豊かな社会人として、送り出さなければならぬと決意をあらたにした次第である。

(県立勿来高等学校教諭)

 

一通の手紙

 

一通の手紙

橋本和子

わただしい年度末の事務整理に追われ帰宅すると、一通の手紙が届いていた。

 

三月二十四日、あわただしい年度末の事務整理に追われ帰宅すると、一通の手紙が届いていた。

見るからに生徒からのものと思われるその封筒には、つい先日卒業したばかりのK子さんの名前が記されていた。

卒業生を送り出した後は、よくこういうたぐいの手紙を手にするものであるが、その時期は、たいてい四月から五月にかけての頃であり、その内容も新しい生活の近況報告や、在学中世話になったことへのお礼などが主である。

しかし、三月末に届いたK子さんの便りは、教員生活を長く続けている私の心に、強く追ってくるものがあった。

その手紙の一端を紹介させていただく。

 

「先生、おかげさまで合格しました。本当に、本当に、ありがとうございました。合格したのは、先生のおかげです。先生のクラスで本当に……うれしいです」−−中略

最初は「女の先生なんかいやだなあ」なんて思っていました。−−中略

花に水をやらなくて、すごくおこられて『ちくしょう』なんて反抗的な気持になったこともあったけど−−中略

そしてバレーボール大会、これが一番思い出深いです。第一体育館で夜遅くまで練習したとき、先生がジュースをおごってくれて『気をつけて帰れよ』と言ってくれたとき『いい先生だなあ』と思いました。

それからなわとび大会のこと、あの時の悔しさ、忘れてません。大会の翌日、目標の回数がとべて、先生のうれしそうな顔を見た時、その顔を大会の日に見たかったなあと思い、後悔しました。−−中略

先生、これ覚えてますか。

一、時間を守って行動できる人

二、一生懸命やれる人

三、うそをつかない人

四、学校を休まない人

五、進路に対する目標をもてる人

これは、一番最初に先生が私たちにくれた手紙に書いてあったものです。

高校へ行っても、この五つは絶対に忘れず、守りたいと思います。−−中略

 

ごくありきたりのように思えるが、私には、彼女たちと過ごした日々の一こま一こまが、この手紙を通して、あ

 

 

 


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