教育福島0121号(1987年(S62)06月)-023page

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ざやかに思い出され、なつかしさを伴って、心によみがえってくるのである。

毎日くり返される教師と生徒とのふれあいの一つ一つが、彼らの成長の糧となっていくのだということを、この一通の手紙は、しみじみと私に感じさせてくれたのである。

この道二十二年目を迎えややもすると惰性で教壇に立ちがちな私に、教え子からの一通の手紙は、ときどきすばらしい教訓を与えてくれる。

(白河市立白河中央中学校教諭)

 

絵は心の友だち

会川 佐武郎

画を美術クラブ展に出品したことも、そのきっかけとなったのかもしれない。

 

子どものころから絵が好きであった。もちろん、他人の前に出すほどの技量はない。父も趣味で描いていたので、少なからずその影響を受けたのかもしれない。それに加えて、中学二年の秋、夕日に映えるニツ箭山を遠景とする一枚の水彩画を美術クラブ展に出品したことも、そのきっかけとなったのかもしれない。

 

当時、クラブ員は全員油絵を描き、ただ一人水彩画の経験しかない引け目から、父に幾度となくねだってみたが、結果は、『自分の技量を考えてみろ』と軽く一蹴されてしまった。ところが高校二年の秋、父が私の目の前に一箇のリンゴを差し出され、三原色だけを駆使して、徹底的な写実表現をすることを試された。チャンス到来とばかり、混色重色に悪戦苦闘し父の前に作品を出して見た。すると一言、

「このリンゴ食べる気になれるか。本物のリンゴはこんな物ではない」と手厳しい批評を受け、みごとに失格であった。後にして思えば、物の本質を見きわめることの大切さを教えてくれたのかもしれない。

一冊の画集といっしょに待望の絵の具を父の手から受け取ったのは、それから数ケ月後であった。『画家になろうなどという夢など持つな』とつけ加えて。だが皮肉なことに、父のことばとは裏腹に制作意欲は高まるばかりで、学業などおろそかになってしまった。前述した一冊のセザンヌの画集の強烈な感動もさらに拍車をかけたのは言うまでもない。サント・ヴィクトワール山と題する風景画、乱雑かつ無秩序にほうり出された玉ねぎとびんを描いた静物画、カルタ遊び、赤いチョッキの少年の人物画など、その作風の魅力に取りつかれてしまったのである。それからは、煙たなびく夕暮の炭住に、破船横たわる小さな漁村にと題材を求め、キャンバスに筆を運んだのである。

『塔の見える夕暮れの街』と題した三十号の作品が、公募展に入選し、有頂天になって会場へ。そこで他人の作品と比較した瞬間、ハンマーで頭をなぐられたほどの衝撃を受けたのである、自分の作品でありながら、自分の存在を感じないのである。見る人に何を訴えようとしているのか、結局はセザンヌの作風のさるまねではなかったのかと。画家を志すな。この一言の真意がわかり、しだいに絵を趣味としてその時々の心の安らぎを持てればと思えるようになってきたのである。

 

以後、余暇を利用しては、スケッチブックを片手に四季おりおりの風景を求めて旅をすることに、心洗われる快感を楽しむことにしたのである。

こうしていま、三陸海岸で出会ったスルメ干しのばあさんとの会話が聞こえてくるなつかしいスケッチを手にし、人の心の素朴さと暖かさを思いおこすことができるのである。書棚の隅の古いスケッチブックからも無性に旅心をくすぐられるのである。

(いわき市立平第二小学校教諭)

 

時の流れの中で

 

時の流れの中で

遠藤 さとみ

の歌声が聞こえて来ると、教師としてのスタートをきった同じ頃を思い出す。

 

田村にも遅い春が訪れ、階下から「春の小川」の歌声が聞こえて来ると、教師としてのスタートをきった同じ頃を思い出す。

新入生が楽しそうに遊んでいる校庭に目をやると、いくらホイッスルをふいても「整列」と叫んでも、三十人がきちんとそろうことがなく、どうしょうかと立ちつくした自分が、また、ギシギシと朝の教室へ向かって階段を上ると、学級朝の会の時間なのに、他の教室の静けさの中で、私の教室からの喧燥だけが響きわたり、「ああ今日もだめか」と肩を落した自分が浮かんで来る。本当に何の取り得もない出来の悪い新任教員だった。

 

当時、私の勤務校の教頭先生は、こんな新任教員を何とか一人前に育てなければと思われたのであろう。新学期

 

 

 


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