教育福島0121号(1987年(S62)06月)-025page
わが故郷は
馬場 のぶ子
山あいから雪の中にひっそり横たわる町並が見えてきた。会津線の列車から降りて、踏みしめた雪は、私をむしろ暖かく迎えてくれた。
「ああ、なつかしいな」 十数年前に初めて南会津の地を訪れた時の私の感想である。初めてであるのに、単線の列車が走るこの地を私は、自分が生まれ、幼ない日々を過ごした北海道の片田舎に似ていると思い、ほっとしたのである。そして、現在同居している夫の両親に会い、その温厚さに触れて、いっそう心の安らぎを覚えた。「この地が、私の故郷となるのか……」
数年後、私は結婚し、同時に南会津へ住まいを移した。それ以前の二年間の猪苗代養護学校における仕事には、かなり心を残すものがあった。しかし、私がたてた二十歳代の人生の目標は、結婚して主婦となり、母となって、子どもを理解しながら、教育者としての研究的な姿勢を持ち続けることであったから、結婚による出発をむしろ歓迎したのである。
それから八年が過ぎようとしている現在、三人の子を産み育ててきた以外、仕事の面で果たして私の願いは実現されてきているであろうか。中学生たちを集団としてみてしまう時、既成のものにとらわれて、自分のことばが通じないもどかしさを覚え、かたくなになる自分を見つめていくうち、教える喜びも自信も失いかけてしまうのを幾度となく感じた。その度、「私は、この子たちに必要とされていない」と思ったものの、日々、虚勢を張って過ごす矛盾から脱することができないでいた。生徒たちにとって、そのような教師は弱い存在と映っていたに違いない。
そんな痛みを感じつつ過ごす折、昨年十一月に、福島に住む母を亡くした。もう福島に帰っても暖かな手料理で私を迎え、私の心のわだかまりを解きほぐし、たしなめてくれる母の笑顔やことばはない。北海道の大地で味わったとうもろこしも、長屋住まいで知った人々との豊かな交流も一生味わえなくなった。つまり、私を産み育ててくれた母は、たとえ離れていても、私にとって「故郷」なのだと、今あらためて気づかされている。何をおいても心のよりどころとなる「故郷」、安らぎと戒めとをもって私に接してくれた存在に、今度は私がなれるであろうか。
現在の私は、家庭生活には恵まれ、ある程度自分の望む生き方を通させてもらっている。そういった家族の協力と先生方のご指導を得て、母が知らず知らずのうちに私に伝えてくれた手づくりのよさを目の前にした子どもたちにも伝えていきたい。子ども一人一人の自然な学びの場をつくり、障害をもちながらも懸命に生きようとしている子どもたちにとっての「故郷」となれるよう、自分の手足を最大限に働かせることができるのなら幸せである。
私は、母として、教師として、自分自身の中に「故郷」を求めていきたい。
(下郷町立下郷中学校教諭)
窓
大竹 倭子
新入生−−数週間前には小学校の最高学年であり、学校の中心だった彼等である。期待半分、不安半分で、新しい生活が始まる。入学式を終えて学級に行き、まだなじみのない席につく。緊張から解放されてホッとした空気がただよう。そんな中で、担任として教壇に立つ時、誰ひとり目をそらす者はなく、全員の視線を浴びる。私は、この瞬間が好きだ。
一人一人の眼が語りかけてくる。圧倒されそうになるのをこらえて、この純真な訴えを受けとめ、彼等の期待を裏切ることがないようにしたいと、身を引き締める。学校を自由に選ぶ余地の少ない義務教育では、なおのこと責任の大きさを感じるのである。
その日から何日か過ぎた。入学前はこわいと思っていた先輩には、やさしい人がたくさんいることを発見して安心し、難かしいと思っていた勉強も楽しく(学級新聞係のアンケートより)学校生活を順調におくっている。部活動も軌道に乗ってきた。
個性を尊重し、望ましい方向に伸ばすためには、家庭との連携が不可欠であると言われている。私のしていることは、理想には遠く及ばないものの、保護者に子どもたちの学校生活の一端を知ってもらうために、学級通信を発行している。今年度は、新たな気持ちでスタートしたいので、「窓」と命名した。
−−窓には、季節の移り変わり、人の動き、心のふれ合い……等、多くの