教育福島0121号(1987年(S62)06月)-026page
ことが映ることと思い、また、それを願って命名しました−−第一号の一節である。
生徒たちが、清純な「心の窓」を開いて私に語りかけてきた入学時の新鮮な感動や、期待を決して裏切ってはなるまい。そして、伸び伸びと、豊かな心をもった若者に成長することを願わずにはいられない。
(二本松市立二本松第三中学校教諭)
国際人願望
高野 耕一
最近は国際化時代だそうである。
そういえば、ある町では外国のどこかの町と姉妹都市になったとか、外国のある大学が分校開設のため視察にきたとか、英会話専門学校ができたとかいろいろと話題がたえない。場末の居酒屋のカウンターで、外国人ととなりあって酒をのむこともめずらしいことではなくなった。
私も刺激されて、英語を勉強しなおそうと本を買いこむが、仕事を口実に一週間と続かない。それでも暇になったら英会話教室へでもと思っている昨今である。
本県でも、国際化の対応策が重点施策とされ、県教育委員会でも「国際交流推進研究学校指定事業」、「海外教育事情調査派遣事業」、「英語担当教員海外研修派遣事業」が実施されている。そして、今春開校した県立福島南高等学校には「国際文化科」が創設され、さらに今年度から「語学指導等を行う外国青年招致事業」が実施される。まさに、世をあげての国際化時代である。
それにしても、日本人とはよほど国際化になじまない人種であるらしい。明治の文明開化以来、国際化に努めてきたはずなのに、今だに国際化への対応策が重点施策とされているのである。たしかに、時代によって国際化というものの内実が違ってはいるだろう。しかし、それにしてもわれわれはあまりにも国際化していないのではないか。語学力からしてそうである。
事実、これは私自身の責任かもしれないのだが、中学校から大学まで十年ちかく英語を学んできたはずなのに、外国人と満足に話すことすらできないのである。私と同じような人は多いのではないだろうか。
ところで、われわれが国際化するとはどんなことなのか。語学力をつけること。外国事情に詳しくなること、それらもたしかに意味のあることだが、私は、国際化への第一歩は、われわれ日本人と外国人は違うのだ、ということをはっきり認識することではないかと思う。つまり、日本人と外国人とのものの考え方、とらえ方、価値観、判断基準の違いを正確に認識することである。われわれにとっての善が、彼らにとって必ずしも善とは限らないのである。われわれは、われわれ自身がもっている一種の「甘え」から、彼らとわれわれとを勝手に同一だと思い込み、そのためしばしば驚き、失望し、憤りを感じることになるのである。
国際化への次なる一歩は、国際社会において、自己を見失うことのないよう、日本人として確固たる信念をもつということである。国際社会において主体性をもつために、日本の文化や歴史について素養を深め、誇りをもつということである。そういったことが、ひいては国際社会において信頼を得ることになるのではないだろうか。自国の文化や歴史も知らず、誇りももたないようでは国際社会において、あまりにも無責任である。
これからは、日本語も国際語の一つとなるだろうし、日本へ来る外国人もますます多くなるはずである。おそらく、外国へいく機会のない私としては、せめて日本文化について素養を深め、日本へくる外国人と、日本文化について正しい日本語で語りあいたいものだと思っている。勿論、日本酒を愛でながら。
(県教育庁高等学校教育課主査)
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