教育福島0122号(1987年(S62)07月)-021page

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随想 ずいそう

 

雑感

雑感

 

賀澤裕三

先輩や新進気鋭の先生方を迎え、以前とはどこか違う新鮮な気分が職場に漂う。

例年のことだが、四月になると今まで苦楽を共にした仲間が転勤し、ふと寂しい気持になる。それも束の間、新たにベテランの先輩や新進気鋭の先生方を迎え、以前とはどこか違う新鮮な気分が職場に漂う。

新しくこられた先生方の中には、着任の翌日から机に向っている姿が、既に何年もそこで過ごしているような実にしっくりとその場に溶け込んで見える先生がいる。一方、旬日が過ぎても何となくそこからさざ波が立っているように窮屈さを感じているように見える先生もいる。職員室を堂々と歩き、凛とした声で話す先生、遠慮がちにささやくように応対する先生がいる。それは、経験の差や年齢の違いばかりではなく、先生方の個性であり、一人一人が本校をどのように感じたかの自然な表出なのかも知れない。どんな風にものを感じられるかは、その人の生き方であり、人柄のように思う。

以前、NHKテレビで、日本が生んだ世界的指揮者「小澤征爾」を紹介した番組を視たことがある。氏は、永年の海外生活とその活動を通して、西洋的感性を得たが、皮肉にもそれが原因でかつてN響からボイコットされたという。その時の新聞のタイトルは、「若僧になめられてたまるか」というものだった。「でる杭は打たれる」という諺を実感した氏は深く傷つき、「この国で音楽はやるまい」と決心したという。映像は氏のボストンを中心に精力的な音楽活動に打ち込む姿と、若い指揮者養成に心血を注ぐ熱気を伝えていた。来日したこともあるという中国のチェロ奏者は、「日本人は個性より協調性が優先する。才能のある者はつらいと思う。だが、一歩東洋を出ると自己を主張しなければならない。東洋では口をつぐむしかないが…」と話していた。一方、氏は、指揮者の卵に対し「君のために言う、音楽は旋律だけじゃない、もっと内的で深い。バーンスタイン・カラヤンをみてもだめだ。あれは彼らのやりかただ。真似だけはするな。カラヤンには彼の道があり、バーンスタインも然り、君の道は君が創るんだ」と熱っばく語っていたのが印象的だった。

これから我々は、個性を尊重し国際社会に眼を開く子どもの育成を目指しての教育を模索していかなければならない。そのためには、教師自らがお互いの個性を認め、尊重し育てていく感覚を身につけることが極めて大切なことであると思う。教師自身の個性を認め合うことこそ、エゴや中傷や疎外を我々の回りから払拭することになると思う。

本県も初任者研修制度の試行を導入したと聞いている。若い先生のエネルギーにゆさぶりをかけ、校内の活火山とし、同僚や子どもたちに大いにその噴火活動を示せるような、個性豊かな研修とすることこそ大切だと思う。

今日も夕暮れのグラウンドに若い先生のユニフォーム姿が子どもたちに囲まれて立っている。子どもたちの表情は見えないが、その背中が、肩が躍動している。

ふと、二十数年前の自分とオーバーラップさせた一瞬がそこにあった。(県立平商業高等学校教諭)

 

私と漢文

 

長澤和幸

教育を受けてきた私たちの世代は、旧漢字の並ぶ漢文はどうも苦手なのである。

私は、大学時代、文学部中国文学科に在籍していたが、漢文に興味を持ち始めたのは、教養課程から専門課程に移ってからだった。興味を持ち始めたと言っても、難しい漢字だけの文章をすらすら読めるわけでもない。返り点がついているものを何とか読みこなす程度である。新漢字で教育を受けてきた私たちの世代は、旧漢字の並ぶ漢文はどうも苦手なのである。

 

例えば、「会−會」、「断−斷」のように新字と旧字が似ているものもあれば、「体−體」、「尽−盡」、「与−擧」のような全く違った漢字のようなものもある。私たちは、漢和辞典で調べ、初めて「辯」は「弁」の旧字体だったのか、というようなことがわかったのである。


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