教育福島0122号(1987年(S62)07月)-023page

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が多いとか。職場でくじを買い、当ったら山分け。さすがブラジルの民族性。朝市にも同行。車が止まると一斉に子どもたちが群がる。買物をする人の荷物を持って賃金をもらい家計を助けている子ら。ゴムぞうりでよく動き、重い荷物を器用に下げて得意そう。

町を歩く女性のファッションは、ジーンズとブラウス姿。ピカピカ光るネックレス。一回りも二回りも大柄な彼女たちといると、さすがの私でさえもスマートにみえるのだから旅は楽しい。

疲れないか、食べ物はどうかと、心配してくれるのに「大丈夫、大丈夫」と日になん度も返答していたらしい私。ドイツ人が「大丈夫とは、どんな意味か」と首をかしげたという。日常会話の中で、いともたやすく「大丈夫」を使用しているが、「貴女は、女性の長所をたくさんおもちですか」と聞かれたら、「ハイ、大丈夫もってます」と果たしていえるであろうか。

大正生まれの兄は、日本人が忘れてしまった日本の美しいことばと日本語を忘れず、汚染されずにおぼえていた。「光ちゃん、歩けば後に道ができるね。いい道を残すことだね」と空港で涙をためて手をにぎり、亡き父のようにきびしくいった兄の顔。

帰国して出勤したあの朝、教室の子どもらも、職場も、校庭の空気もなんとさわやかだったことだろう。

(福島市立福島第三小学校教諭)

 

僕の名は……

 

山ノ内寿太郎

をジュタローと呼ぶのは、ある時から私がそれを否定しなくなったからである。

私の名前はヒサタローと読む。にもかかわらず、人が皆、私をジュタローと呼ぶのは、ある時から私がそれを否定しなくなったからである。

毎年四月、新しい生徒との出会いは胸弾むものである。最初の授業で、一年間の授業の進め方を簡単に説明したあと、名前と顔を確認しながら、生徒一人一人と英語でやりとりをしていく。内容は、名前の読みかた、家族、趣味、部活動等、さま、ざまである。すると、必ず一クラスに数名は、難しい読みかた、変わった読みかたをする名前の生徒がいる。私は、その読み方を当てるのを楽しみにしている。もちろん、授業に行く前に担任から聞いたりはしない。例えば、「哲」という名前が出てくると、「テツ」か「サトシ」か迷うが、遊び心を出して「アキラ」などと読んで、偶然当たったりすると、拍手喝采、「スゲェ!どうして分かった?」などと、生徒は感激したりする。

なぜ私がこのように、生徒の名前の読みかたに執着するのかと言うと、もちろん名前を正しく読んでやりたいからではあるが、名前に関しては私自身にほろ苦い、懐かしい思い出があるからである。

今から二十年前、高校に入学したばかりの四月。各先生方が、今の私と同じように一人ずつ名前を読んで出席を取っていく。当然の如く私の番になると、「ジュタローではなく、ヒサタローです」ということばを何度となく条件反射的に、無表情に私は繰り返した。ところが、某先生の授業で異変が起こる。いつものように出席取りが始まった。私の番は最後の方、級友の乾いた調子の「ハイ」という返事が続く。今日もまた訂正しなくてはいけないのかと、少し憂うつに思いながら自分の番を待つ。いよいよ私の番である。しかし耳に聞こえてきたのは、いつもの「ジュタロー」ではなく「トシタロー」という声。矛想外のことなので少し焦るが、「とにかく訂正しなくては」と、心の中でつぶやく。平静を装ったつもりが、次の瞬間、私の口から出てきたのは、何と「トシタローではなくジュタローです」ということばであった。乾き切った教室内が爆笑の渦に巻き込まれるのに、二秒とかからなかった。

その事件以来二十年間、私は「ジュタロー」と呼ばれれば大きな声で「ハイ」と返事をしてきた。そして最近では、自分でも本当は「ジュタロー」だったかな、などと思うようになってきた。しかし、心の底ではいつも、いざと言う時には「ヒサタローです」と、訂正する準備だけはしている。

「名前なんて音読みすれば通じる」などと乱暴なことを言わずに、一人一人の生徒を大切にするためにも、まず、名前を正しく読みたいものである。因みに、今年出会った生徒の中で、どうしても読めなかったのは、「一礼」と書いて「タカユキ」と読む名前であった。固有名詞とは厄介なものである。

(県立会津高等学校教諭)

 

一生懸命

 

五十嵐逸郎

昭和六十二年四月一日、例年より少ないと言われながらも数十センチの残

昭和六十二年四月一日、例年より少ないと言われながらも数十センチの残


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