教育福島0125号(1987年(S62)10月)-025page

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随想 ずいそう

 

囲碁劣等生

 

囲碁劣等生

西内映子

 

ものがある。最初から、向いていな只能力がないとして敬遠することもある。

 

人にはそれぞれ苦手なものがある。最初から、向いていな只能力がないとして敬遠することもある。

私は、今時珍しく、車の免許を持たず、ワープロもできない。それらを巧みに操っている人を見ると、特別の才能の持ち主に思えて羨ましくなる。

碁もそうであった。なにか特殊な思考が必要な高尚なゲームとしかう?うなかった。父兄弟が碁を打つ姿は子どものころから見慣れてはいるが、「暇な男の娯楽」であり、碁盤を囲み始めるや、食事ができても寄りつかず、母は渋い顔をしたものだった。日曜日は対局番組でテレビを占領され、寝静まった夜更けに立てられる碁石の響きには腹立たしい限りであった。

たまたま、新年度の机の配置替えで私の近くには「棋士達」が集まった。彼らが碁の話をする時の口調には、次第に力がこもり、門外漢の私ですら圧倒されるエネルギーである。碁とは、そんなにおもしろい世界なのだろうか。「覚えてみないか」という強い誘いに私にはとうてい理解できない分野だと思う反面、彼らが夢中になるほどのものなら覗いてみる価値がありそうだと好奇心も興ってくる。

実を言うと、碁に対する関心は、ここ数年来少なからず持っていた。親類の一人で、中卒で女流棋士を目指しているのがいる。以前から、この少女の成長の過程は家族の話題になり、今春登竜門をくぐったというニュースを知った時、急に碁が身近なものに感じられた。「もしかすると、私にもできるのかもしれない」と。

幸いなことに、兄弟も碁を知っており、更に職場には、「手取り足取り教える」とおっしゃる心優しい師匠が数人おられる。「あせらず、勉強すれば強くなる」という当然ともいえる励ましにその気になって、五目置いて兄と一局(十三路盤)。「初段の手、それはいい」のお世辞にニッコとしたものの、一手打つごとに形勢は不利。最後は、「級外の手」で惨惟たる負け。おまけに「だいたい、どこに目をつけているんだ。何回説明したら覚えるんだ」とけなされる。おもしろいどころか、「三手先まで読め」なんてまるでマジックだ。 「難しい!」と溜息が出る。

むろん、なに一つ知識のないところがら習うのだから難しいのは承知の上だが、何度も同じ説明をされ、本を読んで理解しているつもりが、また同じ失敗をした時のいらだち。あれよあれよと石が取られ、相手の碁笥に入っていく時の無念さ。そもそも同じ失敗、説明であることさえ自覚できないのだから、「アッタマ悪いなあ」としょぼくれるしかない。

ところで、生徒たちは、今の私と似たような気持ちで、毎日毎日授業を受けているのだろうか。「教科書読んでもわからない」「説明聞いてもわからない」「問題が解けない」と訴える生徒の不愉快さ、苦しさとはこういうことなのか。よく彼らは、問題を解こうとすると一行も計算が進まなかったり、つまらないミスをしたり、枝葉末節に拘って全体が見えなかったりする。その時に陥る劣等の心理が、今の私とぴったり重なった。

今までの私の説明は十分だったか。「前にも説明したでしょう」とぞんざいに接したことはなかったか。数学嫌いの生徒の心理まで配慮したかと反省した。私自身劣等意識を感じたのは、学生時代以来のことで、目が覚めるようで良い体験になった。

今、石を置くことはできるようになったが、何日置いても勝てない。母と一緒にNHKの「あなたも碁が打てる」を視ながら、そのうち母になら勝てるかなと内心思い、理解しつつあることが楽しくてならない。

ついでに「車の運転も習おうか」と提案したら、「お止めなさい。碁は相手の石を殺す程度ですむが、車は人を殺す」もっともなことである。

(県立相馬女子高等学校教諭)

 

三つの出来事

 

内山勝美

 

内山勝美

 

現在、私は、四年生三十六名を担任している。子どもたちとすごす毎日の

 

 

 


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