教育福島0125号(1987年(S62)10月)-026page

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中で、いろいろな出来事と直面する。そんな中で、プールで起こった小さな三つの出来事が、私の心に強く残っている。

一つめは、夏休みも間近い体育の授業中に起こった。水恐怖症とも言えるA子。ふだんは、苦手の体育にもまじめに取り組むのだが、水泳となると目に涙を浮かべる。水泳のある日の朝は、泣いて手がつけられないと、両親が心配して相談に来た。私も、水への恐怖心を取り除いてやろうと、専門書を調べたり、知り合いの先生に相談したりした。こうして、練習は始まった。一回目は、顔を洗うこと。二回目は、シャワーを浴びること、という具合に、少しずつ目標を高めていった。そんなある日の授業も終わりというころ、手にビート板、背にヘルパーのA子が、ひざの曲がったぶかっこうなバタ足ながら、五材ほど泳いだのだ。A子の必死な顔。パチパチ……。だれからということもなく、拍手が起こった。A子の口もとも緩んでいた。

二つめは、町の水泳大会に向けての、夏休みの特別練習の中で起こった。K子は、日頃目立たない子。私の周りに他の子がいなくなるとやってきて、話しかける。そんなK子は、美しいフォームのクロールをやるのだが、どうしても二十五折が泳げない。そのK子、が、特別練習の一日目、上級生たちの気迫に感化されたのか、プールサイドをけり出すと、グイグイと泳いでいくのだ。がんばれ!最後は、アップアップしながらも、K子は、ついに二十五折を泳ぎきった。自分でも驚いた表情のK子。はにかみながら、こちらを向いて、ほんの一瞬白い歯を見せた。 「先生、見てた?」とでも言いたそうに。私は、手を振ってこたえた。

三つめも、特別練習の中で起こった。やや子どもらしさに欠けるほど、けじめのきちんとしているT子。勉強、運動も得意で、学級委員長。毎日練習に来ては、精一杯の努力をする。その日も、練習の最後に記録をとった。なめらかなクロール。二十一秒五九。平凡だけれど、六年に次いで、女子では二番目の記録だ。 「やった!」そう叫びながら、小走りにこちらへやってくる。思わず、私の口からも「やった!」という言葉が出ていた。

この程度の出来事なら、どこででも起こっているだろう。しかし、私には、この三つの出来事に学ぶことがあった。子どもたちが、楽しい出来事を作るには、教師の陰の支えが大切なことを再認識した。まず、教師が本気になること。小さな出来事を見のがさない心のアンテナを持つこと。小さな出来事をともに喜んでやること……。

これからも、私の周りに数限りなく起こるであろうそんな一つ一つの出来事を、大切に考えていきたい。

(三春町・船引町学校組合立 要田小学校教諭)

 

自然を作る

渡辺孝和

 

のもよいが、私たちの生活と結びつけてながめるとまた違った発見もできる。

 

自然をながめるのはとてもいいものである。単に風景として見たり、地理的にながめたりするのもよいが、私たちの生活と結びつけてながめるとまた違った発見もできる。

阿武隈山系にある中学校に勤務しているころ、大粒のひょうがトタン板やそこかしこを強くたたきながら降ってきたことがある。金米糖ぐらいの大きさのひょうが珍しくて、私は教室の窓、から顔を出し、生徒といっしょになって手に強くあたる感触を楽しんでいた。

ところが、私の隣にいた男子生徒が突然、 「たばこの葉、だいじょうぶだべか」と眉をひそめて、ぼそっとつぶやいたのだ。私は、はっと胸をつかれ、自分よりもずっと生活力がないはずだったその子の意外な言葉に、ある種の尊敬の念と自分の浅はかさを恥じる気持ちが交錯していたことを今でも覚えている。

考えてみれば、自然は私たちの生活には欠かせないことは周知の通りであるが、一方では自然破壊の問題もあり、その危機感が、人間を“自然を作る”行動にかり立てているようだ。

昨年の十月から半年間、筑波大学の長期研修の機会を与えていただいた。常陸野の原野を切り開いたイデアポリス、筑波学園都市は、研究所などの近代的なビルと自然とが不思議なコントラストをみせていた。道路に沿って街路樹が整然と並び、さま、さまな種類の灌木も幾何学模様のように植えられてあった。もともと原野にあった雑木林の木々と不調和な感じではあるが、人間が自然を改めて作っている姿を見た気がした。

我々の家庭の中にさえ、盆栽や観葉植物を持ち込む姿は多くなつ、た。これも深刻に受け取れば、人の世があまりにも機械的になり過ぎて、人間が人間から離れた不安やストレスからの自然への郷愁、心の慰めからであるとも言われている。かく言う私も、観葉植物が四十鉢ほどある。盆栽などに全く興味のなかった私が、たわいないきっかけから観葉植物を育てるようになった。

ある日、「オリヅルラン」の折れそうになった子株をあいている鉢になに、げなく植えたら、いつのまにかながめるのにふさわしい鉢植えになった喜びからである。つまり、小さな“生命”

 

 

 


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