教育福島0125号(1987年(S62)10月)-027page

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の息吹・芽ばえを育む神々にでもなったような感激である。今でも、折れた茎や小株を用土にさしてみる。植木鉢がなくなると、貝がらやプラスチックのカップなどの廃物を利用してみる。植木鉢にはない味わいもあり、その器の中で新しい生命が誕生するようで楽しいものである。

人間性喪失の時代といわれる中で、自然に目をむけ、自然に帰り、自然をいとおしむ気持ちを持つことは、人間性回復に大きな役割を果すような気がする。だから、ささやかではあるが、観葉植物の小さな命を大切にし、その気持ちを子どもにも伝えたいと考えている

(鏡石町立鏡石中学校教諭)

 

心のしずくそれは絵本

児山栄子

 

かしい本、文字の読めない子どものために絵が描いてある本、それとも……。

 

「絵本」この二文字から皆さんは、なにを思うでしょうか。幼いころ読んでもらった懐かしい本、文字の読めない子どものために絵が描いてある本、それとも……。

恥ずかしいことですが、幼稚園教諭になってから、年数だけは十数年も経たのに実は、小学校入学前の字の読めない子どものために絵が描いてある本などと思っておりましだ。

そんな私が、ある保育実技研修会に気軽に参加し、まついのりこ先生一絵本・紙芝居作家一の講演を拝聴したとき、絵本に対する今までの思いが変わりました。 「子どもはなぜ絵本が好きなのでしょう。それは、絵本の世界に入ることによって、生きることに大切なものをもらうことができるからです。絵本の楽しさを子どもと共有したとき、子どもとはなにかを、もっと知ることができるのではないでしょうか」と。三時間の講演でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。

私には、小学校六年、三年の息子と五歳の娘がおります。息子たちに、幼稚園時代よく「絵本読んで」と、せがまれました。帰宅して忙しく夕食の用意をしなくてはならないとき、疲れて早く床に就きたいとき、決まって言い出すのです。 「忙しいからあとでね」ど後まわしにしたり、読み口調を速めて、「はい、終わり」と義務的に、さっさと読んだり、 「これなん回も読んだでしょう、違うのにしたら」などなど。

子どもは、気に入った絵本は、何十回も読んで欲しいとせがみ、だっこしたり、枕もとに置いたりし一緒に夢見、分身のように大切にしているのに。今思うと、せっかくの夢を壊し、伸びようとする豊かな感情の芽を摘みとっていたことに、とり返しのつかない思いでいっぱいです。

「絵本って本当にステキなもの」形から言っても、厚さ、大きさは幼児でも扱い易いし、色彩も豊か。扉と文の間に白い空間、それは、どんなお話が始まるのかなという期待をこめてのくぐり戸ページをめくるごとに、吸い込まれて自分だけの世界になれる静かな心地。生きていることは、すばらしいことなんだよと語りかけてくれるような。子どもだけでなく大人にも、ステキな夢を与えてくれる絵本。

今の子どもは、現実的で夢がない、潤いがないとよく言われていますが、絵本の好きな子どもはそうでしょうか。絵本からもらった心のしずくを、たくさん胸にため、いっかそれが、泉のように静かに湧き出すような、豊かな感情をもってくれるのでは、と私は夢見ています。

今、私が担任している二十名の子どもたちに、ステキな夢のある絵本を大好きになってもらえるよう、保育の中に、生活の中にとり入れていきたいと思っています。

娘が、お気に入りの絵本をだっこして寄ってきます。「お母さん。これ読んで」と。

(下郷町立下郷幼稚園教諭)

 

自然への想い

浅野公生

 

触れあうには、もう相当山奥へでも行かない限り、不可能なのかもしれない。

 

現代っ子の特徴のひとつに、自然との触れ合いが少ないということが、言われている。確かに、現代っ子は、学校の授業が終れば算数や英語の塾へ、また家へ帰ればテレビやファミコンゲームと、外に遊びに出る時間もなく、外で遊ぶより楽しいことが、ほかにもたくさんあるからかもしれない。それに、仮に外へ遊びに出たとしても、町の中で生活している普通の子どもたちにとって、道路は舗装され、野原は宅地となり、川はコンクリートで固められ近くの山に残っていたわずかな森や林も、いつのまにか伐採されてしまっているような環境の中では、自然に触れあうには、もう相当山奥へでも行かない限り、不可能なのかもしれない。

 

私は、時間があればよく山へ出かけ

 

 

 


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