教育福島0125号(1987年(S62)10月)-029page

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なんてりっぱな青年になったこと。

K君は現在H大の三年生。B君は医学の道をめざして奮闘中とのこと。食べて飲んで、話はやっぱり小学生時代の思い出に集中する。

海の家での宿泊。夜中にこっそり食べたとうもろこし。次の日は、腹痛と下痢のため水泳禁止。 「今でも、トウモロコシを見ると必ず思い出します」と、笑うK君。

校庭の除草作業中、へびを追いかけていて学年主任の1先生に見つかり、その罰として、へびに関する論文?を提出させられたというB君。「あれ以来、妙にへびが好きになって」と苦笑する。当然のことながら、「先生にもずいぶんしかられたなあ」ということばのなんと多いこと。

「そんなにしかったかなあ。やさしかつたんじゃないの」

「いやいや相当なものでしたよ。でも先生のしかり方は雷雨型でしたから」

雷雨型。うまい表現である。おそらく落雷の意味も含めてのことであろう。

それにしても、彼らの記憶は実にみずみずしく、しかも適切なことばで、思い出を生き生きと再現するのである。教師のちょっとした言動、はては服装や化粧にいたるまで実によく観察している。相手が子どもだからといって、決していいかげんに接することはできない。と、こんなことは、ずっと以前からわかっていたつもりだったが。

さりげない教師のことばで、自信をつけたり、反対に自信を失ったりすることも多いはず。しかもそれが、一生を左右することになったら……。「ああ、おなかいっぱい。先生の料理最高」「こんどは、早めに連絡してね。もっとうまいもの作っておくから」

十時近くになって、K君とB君は帰って行った。「お正月ごろ、クラス会を開きたいので、その時はぜひ……。」と、いい残して。

こんどは、どんな思い出が語られるのであろうか。楽しみである。

(猪苗代町立長瀬小学校教諭)

 

ふくろうの目

大森俊輔

 

分の身を守るためとはいいながら、じつにうまいしくみになっているものだ。

 

魚の目の位置はおもしろい。ほとんどの魚が鯛のように両側に目をつけている。しかし、平目やかれいのように片側にふたつ寄りそうように並んでいるものもある。砂にぺたっとはりつきふたつの目で上の方を見上げる。自分の身を守るためとはいいながら、じつにうまいしくみになっているものだ。

鳥の目の位置もおもしろい。鶏のように両側に目がついている鳥はどのようにものが見えるのだろう。視野が広くなりすぎて困りはしないか、そんなことまで考え。てしまう。

変わったところに目がついている鳥もいる。ふくろうの目がそれだ。他の鳥にくらべて異様な程に大きい顔、そこに、ふたつの目が人間のように並んでいる。ふくろうは、保護色をして自分の身を守ろうとしている動物でも、高いところがらひとめでそれを見つけることができるという。目が人間のように前にふたつならんでいるため、立体的にものを見ることができるからなのだそうだ。

ふくろうといえば、鼻めがねをかけふさの下がっている角帽をかぶり、ガウンを身につけた姿が目にうかんでくる。外国ではふくろうを智恵の神様としていると聞いたことがある。立体的にものを見、とらえ、判断をする。そのような目をふくろうが持っているためなのだろうか。

 

私の担任した子どもの中にK君がいる。忘れ物の常習犯、そして、身だしなみなどにはいつこう無頓着。書いた文字から内容を読み取るまでにはかなりの習練を要する。このK君が四年生の時にこんな日記を書いてきた。

とうめい人間がもしいたら、ぼくのあとをこっそりついてくるだろうなあと思った。立ちしょんべんしたかったけれど、気どってトイレでした。えりをきちっとして自転車に乗って学校に遊びに行った。とうめい人間は、今、日記を書いている僕の近くにいるかもしれない。

もういちど、とうめい人間にお礼をして、おやすみをいってから寝ることにしよう。

 

ぐずで、だらしがないと思いこんでいたK君の日記がこれだ。他人をごまかすことはできても、自分をごまかすことはできない。K君はもうひとりの自分の存在に気づいている。それが、立ちしょんべんをしたがったK君をトイレに行かせたもとになっているのだろう。K君は「思い込み」で子どもを指導しがちな私にとっての先生である。

 

私たちは、ふくろうと同じ位置に目がある。立体的にものを見たり、とらえたり、考えたりする力をフルに生かしていきたいと思う。その訓練を、今しておかないと、しまいには鶏のように、目の位置が両側に移ってしまうような気がするから。

(いわき市立差塩小学校教頭)

 

 

 


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