教育福島0125号(1987年(S62)10月)-030page

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会津の尾根高く

佐久間晃祥

 

摘されている。この章の中には、私なりに不自然と思われ、気にかかっている

 

「奥の細道」には、随所に文飾あるいは虚構と見られる部分が含まれているということは、既に知られているところである。そして、この中の「須賀川」の章にも、それのあることが指摘されている。この章の中には、私なりに不自然と思われ、気にかかっている

一節があるので、拙い考えを述べてみたい。

「須賀川」の章の初めの部分に「左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる」という一節がある。この「会津根」については、どの文庫本の解説・でも磐梯山のこととある。しかし、この一節の情景を安積野を北上する間で考えてみると、会津根を磐梯山と解釈しては、現実的に左右のバランスがとれていないような気がしてならない。確かめるつもりで、この夏休み中二度車でではあったが、白河から本宮の間を走ってみた。やはり気がかりである。芭蕉は、須賀川から乙字ヶ滝を廻って守山に出、郡山に一泊して福島に向っている。この間に磐梯山の見えるチャンスがあるのは、須賀川を出てから日和田に入る手前までである。中山峠のあたりかと思われる山の稜線が低くなったあたりに、それは「高く」というよりも遠く遥かに望まれる。そして、日出山から日和田の手前までは、頂上の三角がわずかに見える程度である。もしかすると、芭蕉が見た磐梯山は、明治の大噴火の二百年前の姿であったから、 「高く」という状態であったのかも知れないとも思った。噴火で吹き飛んだ部分は、現在の大磐梯の北側にあったほぼ同じ高さの小磐梯である。だから、芭蕉は、双峰の磐梯山を見たかも知れないが、やはり「高く」というイメージであったとは考えられない。そういうことで見るならば、安積野の西側に連なる会津の方の尾根であろう。したがって、「会津根」を固有名詞としないで、一般的に会津の尾根高くと考えた方が、奥行きと幅のスケールが大きい表現をしている右との約り合いがとれるような気がする。最近出版された会津の観光案内の本に「会津嶺とは、磐梯山のことで、山国会津の総称でもあった」と出ている。

それにしても、この行程で目につくのは安達太良山である。磐梯山を望むよりはるかに実感をもって「高く」身近かに感じられる。恐らく、芭蕉もそうであったのではあるまいか。しかし、芭蕉は、あえて「会津根高く」とした。なぜであったか。それは、歌枕に関係しているのではないかという気がする。磐梯山も安達太良山も万葉集の東歌に歌われている。白河の関を越えて「みちのく」に足を踏み入れた芭蕉には、やはり別れを惜しんで来た人々への思いがあったのではないか。それを万葉の歌枕に託したのではなかったろうか。

会津嶺の国をさ遠み逢はなはば

偲ひにせもと紐結ばさね 万葉茜四五

(県立田村高等学校教諭)

 

ある出会い

伊達いずも

 

は、どのようにして相手と意志を通じ合わせるのかそれすらも知らなかった。

 

大学を卒業して新採用されるまでの二年間、講師として聾学校に勤務した。それまで、聴覚障害者といわれる人に接したことのなかった私は、どのようにして相手と意志を通じ合わせるのかそれすらも知らなかった。

一学期始業式当日、子どもたちに新任の挨拶をするために、書きぞめ用ぐらいの細長い紙を渡された。「これに名前を書いて、口を大きく開けて、ゆっくりとはっきり話してください。子どもたちは、口の動きを見ますから。」

ああ、そうすればいいのか。子どもたちは補聴器もつけているし、口の動きでことばがわかるのか…。今までの不安の半分ぐらいは消えたような気がした。しかし、その数分後、それ以上の不安が私を襲ったのである。

式終了後教室へ入り、そこで自分の担任する二人と初めて会った。二年生と三年生の、どちらも女の子だった。どちらの子も愛らしく、にこにことわらいながら私の顔を見ていた。一人の子が私の手を握りながら話しかけてきた。私も笑顔で答えてあげたかったのだが、一言も話せなかった。私には、二人が何を言っているのか、まったくわからなかったのである。

聴覚障害がことばの遅れも伴うということを知らなかったわけではなかったが、こちらの意志をどうやって相手に通じさせるかに頭を悩ませていた私にとって、相手の言っていることもわからないということは、予想外のことだった。これでどうやって授業をすればいいのか、いや、どうやって子ども

 

 

 


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