教育福島0125号(1987年(S62)10月)-031page
たちと交流を深めていけばいいのか、手だては何もないように感じた。
次の日から、まるでことばの通じない外国にいるような毎日だった。子どもとことばをかわすのが恐ろしかった。子どもは私の言うことはわかるのでいろいろ話しかけてくるのだが、私のほうは彼女たちが言っていることがまったくわからない。いつもとんでもないことを答えていた。高学年の子は、私が変な返事をすると嫌な顔をした。授業などはとてもできるような状態ではなかった。自分で自分がなさけなくて子どもの前で涙をこらえることもあった。
子どもたちと会話ができるようになるまで一学期いっぱいかかったように思う。毎朝子どもたちと一緒に電車で登校し、本気になってすもうやプロレスごっこをした。そんな中で少しずつ信頼関係ができてきた。頭の中の理論や口先の会話でなく、からだ全部で子どもとぶつかり合いながら、同じことを一緒に学んでいくような感じだった。子どもが成長した分、自分も成長し、自分が成長すれば、それだけ子どもも慕ってくれたようだった。
離任の日、二年間ともに成長した子どもたちの姿は、涙でくもって見えなかった。多くのことを学ばせてくれた子どもたちに感謝している。
(梁川町立梁川小学校教諭)
日記を通して
会田 ユキ子
生徒との心のふれあいをめざし、日記を書かせてから二年数か月たちました。いざ始めてみると、毎日返事を書き、その日の帰りまで生徒に返すということは、時間的にも容易でないことが分かりました。しかし、このことが習慣となってからは、やはり書かせてよかったと思っています。多忙な一日の生活の中で、お互いに話し合う時間がなくても、日記の中で語り合うことができたからです。
一年生のころは、生徒は実に無邪気になんでも書きました。絵日記あり、詩あり、漢字だけの文章、いつも二ぺージも書いてある日記、部活動の実況中継的日記等、一人一人の個性がよくあらわれ、生徒の性格を知るよい手掛りになりました。
二年生になって、学級の編成替えがありました。新メンバーでの日記は、拒否反応を示す生徒もでるなど、順調なスタートではありませんでした。特に男子の中には一行程度の日記が多くなった上、内面的なものを書かない傾向も強くなってきました。一時は、続けるのは無理かとも思いましたが、連絡帳的な日記でもよいと考え継続することにしました。あまり書こうとしな・い生徒には、こちらからその生徒の生活の中での良かったことや他の先生がほめていたこと、本人の趣味についての質問などを書いてやるといった具合いで、日記を書き続けさせるのも容易ではありませんでしたが、それなりの成果も見えてきました。
三年生になったある日、一年から担任してきたA男、いつものとおり一行旦記でしたが、「いよいよ三年!おれもがんばっから先生もがんばって!」と書いてありました。これだけの内容でも、私にはこの文章の中に生徒が何を言いたいのか痛切に分かり、ジーンときてしまいました。
また、教室の中ではふだんは地味な存在でも、自分をよくみつめ、まわりをよく観察し、はっきりとした考えを表わす生徒や「おれはバカなんだ」と言いつつ、日記には「プリントください」と書く生徒など、さまざまの文章を通して、生徒たちの心情を感じとることができ生徒から学ぶことも多々ありました。やがて、文字を見ただけでもだれが書いたかすぐ分かるようにもなり、生徒たちも生活の一部としてとらえ、一生けんめい書いてくるようになりました。
生徒が成長し自分の中学生時代を思う時、いわば手作りの青春時代の記録があるということはすばらしいことだと思います。
日記は強制されて書くものではありませんが、書かされているうちにいっか習慣となり、自分を見つめ、他人を思いやる人間に育っていくのではないかと思います。
二学期に入り、いよいよ受験の準備の時期を迎えますが、生徒はさまざまな思いを日記に書き表わすでしょう。人生相談の解答者のような、すばらしい答えはでないと思いますが、日記を通して、お互いに悩み、苦しみ、励まし合っていきたいと思っています。
(原町市立原町第三中学校教諭)
アメリカの旅
大越憲峰
「新東京国際空港発、日本般空○〇二便、予定通り到着するみこみです。只今のサンフランシスコ、天気晴れ……」というアナウンスで目がさめた。窓の下には、海岸線が真青な海の色にくっきりと写しだされていた。
幼少の頃から、最も身近な外国とし