教育福島0126号(1987年(S62)11月)-007page
形だとするならば、教師としては、子どもの問題行動だけに指導の焦点を当てるのではなく、その行動の根底にある切実な訴えを見極めて、介助の手を差し伸べてやれるだけの専門生を持たなければならないだろう。
学習指導に関しても、「偏差値が見えて、子どもが見えない」ということがあっては困るのである。教育のプロであるからには、学力不振の子どもにこそ、学習課程でのつまずきを診断して適切な改善処法を施すとともに、興味を持たせ、自主的な課題解決力を段階的に習得させるだけの指導力が必要だと思うのである。
こういったことは、日常の教育実践の中で、だれしもが心して指導しているところではあろう。が、時として、現象の持つ魔力に惑わされるおそれがないとは言い切れないし、ひるがえって、自身の足跡を省みれば、内心忸怩(じくじ)の思いがつのるのもまたたしかである。
それでは、いったい「子どもが見える」ようになるのには、つまり、教育の本質を見失わないようにするのにはどうすればよいのだろうか。
これこそは、教育活動の前提となる重要課題の一つであろうが、私は、教師としての『心眼』を持つこと−温かい人間愛と、豊かな専門生に支えられ、健康な身体と、厳しい意志の力とに裏打ちされた『心眼』を身につけることだと思うのである。
古来、幾多の先輩たちによって、数えきれないほどの教育論議が展開されてきたが、結局、教育論は教師論に尽きると言われている。
この道を生涯一筋として選んだからには、教師としての『必眼』を修得するために、日々の自己研鐙に努めなければなるまい。そして、そのことが子どもの持っている未来への可能性を大きく伸ばし、ひいては、子どもの成長の意欲に応えてやれる最善の方法だと信じるのである。
県小・中学校長会研究大会で講話する筆者
提言