教育福島0126号(1987年(S62)11月)-025page
先生をみかける。美的感覚に乏しく、時代遅れのスーツを着用している自分が、ワイシャツ、ネクタイでけじめをつけるなどと言っていては「化石人間」などと称されてもしかたがないのであろうか。
そういえば、私は今年で教職三十年目を迎え、永年勤続者の仲間入りである。折しも、去る八月七日には、臨教審の第四次最終答申が出された。今次教育改革の成否が問われるのは、現場で具体的に実践するわれわれ教師である。二十一世紀の日本と世界を担う子どもたちのため、過去三十年の教職にけじめをつけ、がんばろうと情熱をたぎらしているこのごろである。
(いわき市立錦東小学校長)
K子を悼む
野崎健二郎
偶然まわしたテレビの番組に私は釘づけになった。それは二年前だったか、三年前だったか思い出せないが、しかしその時の情景だけは今でも鮮明に浮かんでくる。日本女子工業高校の卒業式の時の佐藤信校長の顔、涙を滂沱と流して卒業する生徒一人一人に握手している姿である。
それを見ているうちに私自身もが濡れていた。それは理屈ぬきの感動であったと思う。白河女子高校で最初の卒業生を送り出した時の卒業式の情景が脳裏で重なっていた。式が終了してから、教室で卒業証書を一人ずつ手渡して最後の別れの挨拶をした。「今までは受験勉強ばかりやって来たと思うが、大学に入ったらこれまで出来なかった人間を豊かにするような教養書や古典の読書をしてもらいたいと思う」と言いながら、悲しい気分になってことばも途切れがちになったことを思い出す。今から十三年も前のことである。生徒からあとで「先生、あの時泣き出しそうだった」と言われて気恥ずかしい思いをした。教師であれば、だれでも経験するごく平凡なことかも知れないが、その後学級担任のなかった私にとっては貴重な思い出の一コマである。
そのクラスの卒業生の一人、前途有為なK子が不幸にも病いのため不帰の人となった。運命は残酷としか言いようがない。彼女は優秀な生徒であった。受験戦争では、いずれも難関の大学を次々と突破し、たまたま合格とも不合格とも報告がなかった大学について結果はどうしたと訊ねたら、恥ずかしそうに「また合格しました」と答えた。すでに第一志望の大学に合格していた彼女は、悪戦苦闘しながら合格を待っている友人たちに対して、自分ばかり幾つも合格してすまないような気持だったのだろう。彼女は目的の大学の法学部に入学した。在学中から司法試験に挑戦し、さらに修士コースでは企業犯罪というテーマの卒論にとり組んでいると話していた。夏休みや冬休みにはよく私の家まで訪ねて来て、明るく賑やかに近況報告を欠かさなかった彼女も、志を達成しないまま病魔に襲われたのである。しばらく音沙汰なしなのでどうしているかと思っていたら、年賀状の中に彼女の名前があった。しかも郡山の病院から投函したものである。驚いて彼女の家に電話をしたら病状は重いというので、早速見舞いに出掛けた。病室は二人部屋のカーテンで仕切られた奥の部屋であったが、彼女は「声を聞いてすぐ先生だと分かった」と言った。やつれてはいたが、いつもと変らない愉快な話しぶりであれこれと話し、そんなに話をして大丈夫かと心配するほどであった。予想外に元気な様子をみて一安心の感じで「そのうちにまた来る」と言って帰って来た。その後、心にかかりながらいたら彼女の家から計報があった。高校を卒業してからわずか十三年、余りに早過ぎた死であった。教え子の成長をわが事のように純粋に喜べるのは教師の特権かも知れない。しかし同様に、期待していた教え子の不幸に遭遇した時の悲しみも、また教師の宿命なのだろうかと思う。K子の死にただひたすら哀悼の心を捧げるのみである。
(県立白河女子高等学校教諭)
小さな大運動会
斎藤秀峰
五月十日、長沼小学校勢至堂分校の狭い校庭に三十年ぶりの運動会がもどってきた。
分校児童十一名を先頭に、堂々の入場行進。じいちゃん、ばあちゃん、中学生も高校生も後に続く。
今までも地域の特性を生かした教育実践をめざして、「はだしの教育」、分校地域に田がないため本校PTA役員の方の田を借りての「米づくり」、手づくりの米を使っての「野外もちつき」、