教育福島0126号(1987年(S62)11月)-027page

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焼きものの町で

 

伊藤範子

 

く旅立たせたときの心境と似ていた。寂しいけれども、なにか心うれしげな。

 

あの日−せと市−の朝、学校の陳列棚に飾られ長い間わたしを楽しませていた皿が売られていった。わが子を遠く旅立たせたときの心境と似ていた。寂しいけれども、なにか心うれしげな。

その皿は、昨年の夏休み、校内の陶芸教室で子どもたちと作った。底に寒つばきの花を絵つけした苦心作であった。それは、この行事のたびにさまざまな失敗を繰り返しながら、ようやくこの世に誕生したもので、いつも分身のような気がしていた。

はからずも、この夏の陶芸教室で宗像焼の作業場をつぶさに見学する機会を得た。グランプリン賞受賞陶芸家・宗像亮一氏の手から、器がつぎつぎと生み出された。それは、わが子をいとしげに愛ぶするときの、あの手つきを思わせた。器は、大きなうぶ声をあげながら誕生した赤子のようで、まさしく生きものに見えた。

焼きものの魅力は、陶土の個性を手でまさぐりながら、土と人とが一体となったとき、粕(うわぐすり)や微妙な炎の加減で、柔らかな光と色調を醸し出し、えもいわれぬ美しさを見せてくれるところにあるという。

 

その日−わたしが、二作目の花びんを製作した日−長い歳月をただひたすら、本物の焼きものを求め続けている土の芸術家の姿に触れ、なにか教育の本質に迫る貴重な示唆を与えられたような気がした。

教育の営みは、芸術とよく似ている。芸術家が作品を創造するように、教師は、ひとをつくりあげていく。子どもの個性をまさぐりながら、彼らと一体となったとき、すばらしいひとを創造することができるに違いない。

思うに、長年国語教育に携わりながら、これまで、これがオールマイティだといえる指導の方式はついぞ見つからなかった。いみじくも、土の芸術家が、土に習ったように、この命題は、目の前にいる子どもに習うことによってしか解決できないのかも知れない。

真の教育とは、奇をてらったり、新しいことを追ったりすることではなく、子どもと一体となって、あたりまえのことをあたりまえにやる地味な営みである。つまり、その一つ一つに心を砕いていく丁寧さと、一人一人に手の届く温かさがあるかどうか−あの器を生み出すときの姿なのだ。

それをつくり出すために、わたしたち教師は、毎時間を「わかる授業」の創造と子どもに対する誠実さ、彼らに習う謙虚さを忘れてはならないだろう。また、子どもを変えるには、自分自身の変革に努力しなければならないし、生徒一人一人の長所や可能性の発見に努め、長い目で見続ける心のゆとりを持たなければならないだろう。

わたしがこの町で得たものは、長年培われてきた本郷焼の伝統の技と、陶芸のすばらしさである。そして、厳しい教職の道標とその生きがいである。

※陶芸教室の作品は、次年度のせと市に協賛し、生徒会役員の手で販売され、製作費用・活動資金にあてられる。

(本郷町立本郷中学校教諭)

ある日の授業で

 

ある日の授業で

 

青田誠

 

と多くの生徒はあらためて自分のからだや友だちのからだをながめています。

 

「君たちのからだの値段はいくらだろうね」という私の問いに「?」と大部分の生徒。「人の命は地球より重いといいますよ」とは機転が利く生徒。「すまん、すまん。質問が悪かったね。つまり先生の意図するところは、からだを物質として考えた場合の値段です。人間のからだは大部分が水素・酸素そして炭素などの集合体です。その他にもいろいろな原子がありますが、多くは今話した原子がかなりの部分を占めていると思ってまちがいありません。ですから、からだの値段は数千円くらいのものだと思います」 「へえーそんなものなのかなあー」と多くの生徒はあらためて自分のからだや友だちのからだをながめています。

 

「今値段の話をしましたが、人間の生命体としての寿命を考えてみましょう」「先生、人間はどんなに長く生きても百年くらいのものですか」「そうだね。そんなものですね。ところで、見方を変えてみよう。つまりね、からだは百年たてばなくなってしまうけど、からだを構成している原子までなくな

 

 

 


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