教育福島0126号(1987年(S62)11月)-034page
ている。
パトロール対象の文化財は、国・県指定の国宝・重要文化財および重要遺跡で、文化財の管理状況・環境保全の実態把握などに留意し、保存管理上問題があれば関係機関に連絡し、所有者や管理者に対し適切な指導助言をし、文化財保護に万全を期している。
三、発掘技術の研修
県教育委員会では、埋蔵文化財の発掘調査体制の強化と保護の徹底を図るため、調査員の専門的知識と技術の向上に努め、多種の研修への積極的な参加を呼びかけている。
本年度は国の埋蔵文化財センター主催の次のような研修会に参加した。
一般課程に二名、遺構探査・予備調査課程、遺跡保存整備課程、遺跡測量課程、報告書作成課程にそれぞれ一名参加した。
また、県教育委員会主催の第十五回福島県発掘技術者講習会は、福島市を会場に二十五名の受講者があり、考古学に関する基本的な知識と技術について熱心に受講した。
四、開発に伴う発掘調査
埋蔵文化財は、土地利用と密接な関係をもち、その保存は容易なことではない。特に、最近は公共性の強い土地開発が急増し、保護と開発との調整にはかなりの苦労があり、早目に事前協議を行なうことが急務である。
本年度県教育委員会で実施した分布調査は、東北横断自動車道の踏査および国営農地開発事業の母畑地区・矢吹地区の試掘調査である。
遺跡は、現状のままで保存するのが最善であるが、種々の開発事業によって保存不可能な遺跡も少なくない。このような遺跡の全容を記録に保存するための発掘調査を、母畑地区・矢吹地区、会津農水事業、相馬地域開発、国道一一三号バイパス、真野ダム関連、東北横断自動車道関連などについて実施し、あわせて史跡指定調査関和久上町遺跡について実施した。
また、市町村教育委員会においても分布調査、発掘調査を実施し、多くの成果を得た。それらの主なものは次のとおりである。
(一) 真野ダム関連遺跡
真野ダム建設に伴う発掘調査は、これまで六年間に十五遺跡の調査を終了した。
今年度は、四月中旬から五遺跡の調査を行った。岩下A遺跡(第二次調査)からは、弥生時代前半期の土坑四基と遺物包含層および水田跡が検出された。水田跡は、弥生時代中期前半のもので、関東地方以北で発見されているものでは最も古い時代のものである。
(二) 相馬開発地区内遺跡
今年度も四月中旬より相馬市・新地町にまたがる東地区、相馬市椎木・大坪地区を中心とする西地区内の遺跡を発掘し記録保存を図った。中でも東地区の唐崎、今神、南川尻A・B、古川尻B、双子遺跡は、江戸から明治・大正・昭和にかけての一大製塩遺跡で、発掘調査は全国的にもまれなものである。唐崎釜屋群は、古式入浜式の塩田を備えた製塩場であったとみられ、釜屋跡六、土舟型かん水六十六、浜溝・沼井が検出され、製塩用の鉄釜片、陶器・磁器片、木製品などが出土した。
(三) 会津農水事業、一ノ堰B遺跡(会津若松市)
国営会津農業水利事業の水路建設に伴う記録保存のための調査である。
調査の結果、弥生時代中期の土坑墓百十三基、堅穴住居跡一棟、管玉百点以上、勾玉六点、完全に復元できる土器三十点以上を含む土器片が平箱二百箱以上などが発掘された。また、墓域から約十メートル離れて土坑墓と隅丸方形の住居跡が一棟検出された。
(四) 国道一一三号バイパス地区内遺跡
国道一一三号バイパス建設に伴う発掘調査は、これまで三年間に四遺跡の調査を終了した。
今年度は、境A・B、善光寺の三遺跡について五月から調査を開始し、十二月に終了の予定である。調査はまだ継続中であるが、境B遺跡からは平安時代の火葬墓が二十五、善光寺遺跡からは鎌倉・南北朝期の火葬墓が十、七〜八世紀の須恵器窯、瓦窯が七基検出された。
(五) 石生前遺跡(柳津町)
只見川東岸の段丘面上に立地する縄文中・後期の遺跡である。農道拡幅のための発掘調査で住居跡・土坑(墓坑)・遺物包含層などが検出された。遺物包含層は、年代順に堆積した数層のゴミ捨て場であり、大量の遺物が出土した。遺物の中心は、縄文中期前半から中頃にかけての土器であるが、東北的な土器の他に越後、北陸、関東的な土器が大量に認められ、文化の交流を考える上で重要である。
(六) 南古館跡(長沼町)
水田面に立地した中世の平館であるが、県営ほ場整備事業のため、館跡のほぼ全域が発掘調査されている。主郭は、内部に土塁を回し、外側に幅五メートル前後の堀を配し、主郭の東・北側には三か所の副郭が確認された。多量の中世陶器、中国青磁、木器、木製品が出土しており、十五・六世紀の年代が考えられる。在地有力武士階層の日常居館の構造と、その生活状況を知る上で貴重な調査である。
(七) 鹿屋敷遺跡(浪江町)
請戸川北岸の段丘面に立地する古墳時代から平安時代の集落遺跡で、墓地移転に伴い六十一・二年度で八千平方メートルを調査した。調査の結果、百軒近い住居跡が検出され、四世紀から十世紀にかけての各時期の標式となる土器類のセットが明らかとなった。検出された住居跡には、一辺が十メートルを越える大型のものもある。