教育福島0130号(1988年(S63)04月)-028page

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赤い色の残る熾の上に子どもたちがそっと作品を並べていく。土器が、素外な味わいの埴輪が、煤で黒ずんでいく。その上に木をのせるとオレンジ色の炎があがる。これから四時まで燃やし続けるのである。心配そうな子どもの眼差し。手を合わせ祈っている子どももいる。炎が強く顔が熱い。煙が目にしみる。私自身も壊れずに焼けるだろうかと不安と期待で胸がいっぱいになりながら、立ちのぼる炎を眺め五年前を思い出す。

 

六年生の社会は歴史から始まる。縄文時代の土器、住居などと造形活動を結びつけたいと考えていた矢先、美術誌の中の「野焼き」という小さな活字が目に飛びこんできた。これが日本教育陶芸研究会の存在を知るとともに信楽の地を五回も訪れるようになったきっかけである。

紫式部が源氏物語を書いたという石山寺から東に車で四十分、山深い里に六古窯のひとつ、信楽の地であった。

父島から二十九時間も船にゆられやってきた青年教師、昨年教職を退いた初老の夫婦、大学の副学長、幼稚園の経営者など、年齢職業をこえ百名近くの人が夏季陶芸大学に参加している。「土と炎と子ども」をテーマに焼き物づくりの楽しさを子どもたちに味わわせたいという目的で。実技の課題はつぼと花入れの製作。ひもづくりで積み上げていくが思うような形にはならず、手をとって教えて頂く、朝六時前から作陶している人や夜十時過ぎても粘土を練っている人がいて熱気がすごい。

作陶の合い間の信楽の街散策もまた楽しい。陶芸店が軒先を並べ、その中に大小様々の狸の焼き物が何千、何万とおどけた顔で道行く人を眺めている。狸づくりの名人の見事な手さばき、焼き物で二万色の色が出せるという壁画をつくる陶板工場見学、夜空を彩る野焼きの炎、どれもが心に残るものであった。

 

点火して七時間余り、午後四時野焼きの火をとめる。

「あの木の下のが、ぼくのだ」「あの辺に置いたけどうまく焼けてっかな」とにぎやかな声。熾の中の土器が赤褐色に見える。無事焼けたようだ。柔かな粘土が炎の洗礼を受け焼き物に変わるのは、昔も今も変わりない。灰の中から自分の作品を取り出す子どもの眼の輝きが忘れられない。

(桑折町立伊達崎小学校教諭)

 

子どもたちのロマンを育んだ野焼き

子どもたちのロマンを育んだ野焼き

 

働きながら学ぶ

鈴木 義祐

 

とそれこそ様々な挨拶で職員室に入ってくる。授業開始前のひとときである。

 

福島市の中心と渡利地区を結ぶ「松齢橋」が帰り足の高校生で混雑する夕暮れ時  反対に登校するためにこの橋を渡ってくる高校生がいる。本校定時制課程の生徒たちである。ジーンズに皮ジャン、あるいは職場の制服と、様々な恰好をした生徒たちが、「おはよう」、「今日は」、「おばんです」とそれこそ様々な挨拶で職員室に入ってくる。授業開始前のひとときである。

桜の花がほころび始めた、そんなある日のこと−−私の担任する二年生のY男が私の机に近寄ってきた。

「先生、俺……今年は少しまじめに勉強してみようと思う。仕事もがんばって続ける。考えてみたらいつまでもチャラチャラしてられないよねえ」耳にピアスをし、バイクを乗り回し、中学時代いわゆる問題行動の多い生徒と言われたY男が、少し恥ずかしそうにしながらも実に真剣な能度でこう言ったのである。

一年前、私は学生時代を過ごした筑波の地をあとにし、「勤労学生」という言葉に期待で胸を膨らませながらこの学校に着任した。すぐに一年生のクラスを担任することになったが、私を待ち受けていたのは急激に様変わりしつつある定時制高校の実態であった。本来働きながら学ぶ者のために門戸を開かれた定時制高校であるが、働こうとしない生徒が年々増加しており、私のクラスでは実に半数を越えていたのである。彼らの多くは再募集で入学した生徒であり、経済的に恵まれているということもあって、仕事に対して非常に無気力である。「高卒の資格だけは欲しい」と口をそろえて言う彼らであるが、昼間ブラブラして夜だけ学校に通おうというのは、どう考えても人間の自然な姿ではないし、結局学習への興味を失ってしまう生徒が多くなる。このような生徒たちに対して、この一年間、「働くことは、何もお金だけが目的なのではなく、人間の生きがいと関る大切な問題であり、社会での自分

 

 

 


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