教育福島0130号(1988年(S63)04月)-030page

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自然の中へ

星 俊夫

 

あいさつしないとだめだよ」「わかった、わかった」と、しぶしぶ答える私。

 

以前訪れた尾瀬は、ニッコウキスゲが咲き乱れており、周りの景色を十分堪能しながら歩くことができた。しかし今回は、学級の子どもたちを連れてのハイキングである。「先生、もっと元気よくあいさつしないとだめだよ」「わかった、わかった」と、しぶしぶ答える私。

それにしても、子どもたちは元気はつらつでとてもうらやましい。そんな光景をとらえようとビデオカメラを回し始める。子どもたちの生き生きした姿を少しでもよく撮ろうと思うからである。ところが、意外にも子どもたちは、自分の顔を写してもらおうとポーズをつくってしまうので、少々がっかりさせられた。

時の流れに沿って子どもたちの姿を追うと、木道の角につまずいて転び、汗をふきふき、「ウォッ」と叫ぶ天真欄漫な振る舞い。純粋な子どもたちの姿がまぶしくなるばかりである。

尾瀬はとても不思議な力をもっている。訪れる人々の心を柔らげ、さわやかにしてくれる。そんな尾瀬が、私も子どもたちも好きである。見知らぬ人との出会いに大きな声であいさつをし友が疲れたといってはナップザックを持ってやり、転んだといっては手を差し伸べてくれる気配り、思いやりは、教室で見られない別人である。

私は、尾瀬に来て子どもたちの真の姿をとらえ、ふれあい、担仕の喜びを知り、そして子どもたちへの安堵感と山への歓喜を肌で感じたのである。付き添った父兄も、自然と戯れるわが子の姿をみて、きっと驚嘆したにちがいない。

「自然に帰れ」ということばがひととき流行したが、まさにこの一日の子どもたちの光景は、その一言に尽きる。あるときは花になり、風となり、自由に大空を駆けめぐる真っ白な雲となって自然と語り合っていた子どもたちの姿を、決して忘れられない。

 

私は、ビデオにおさめた尾瀬の記録を一学期の授業参観にとりあげてみた。記念に撮った子どもたちの記録は、この授業の場面でも感動を呼び起こしてくれた。画面に映つる一コマ一コマをみては、歓声をあげ、満足してくれた。父兄も尾瀬の自然の壮大さと生き生きしたわが子の姿をみて、涙ぐんで見てくれた。

澄み切った空に浮かぶ燧ケ岳、色彩豊かな木々の葉、あざやかな尾瀬沼、人の心を感動させるのに十分であった、

自然はすばらしい。

すばらしい自然の中で、生き生きとした人間が育つことも教えられた。

(下郷町立江川小学校教諭)

 

歌のこころ

本間 節子

 

とを「歌をよむ」という、「よむ」とは「数をかぞえる」ことであるそうだ。

 

歌を作ることを「歌をよむ」という、「よむ」とは「数をかぞえる」ことであるそうだ。

昨年、二年生に歌を作らせてみた。生徒の大部分は初めて歌を詠む人たちである。万葉、古今、新古今、茂吉や啄木から話題のベストセラー「サラダ記念日」といったさまざまなお手本を提供し、また「日常」という題を与えてその「発想」を促した。「発想」に基づき「構想」し「創作」するのが芸術のプロセス。柔軟な若い心をちょっとだけ刺激すれば泉のように新鮮なアイディアが湧いて出る。

生徒たちはさっそく五七五七七の数を数え始めた。指を折り、四苦八苦の挙句、傑作が生まれた。四苦八苦してひねり出すから巧まざるものができる。わずか十三年間の経験、言葉は稚拙である。

・つくろうと思ってみてもむずかしゅうて短歌の文が頭にうかばず

と作者はいいながらもどうして次々と場面ごとの表現がこれに続くのである。

・新品のラケットの間に土入るこれはまずいな早くとらなきゃ

・陸上とテニス終わりて家かえる体つかれて何もする気なし

中学時代、ああ自分もそんなことがあったなと思わず苦笑させられ、

・日曜日勉強しようと思ってもこんな日にかぎってやる気がおこらず

・読みかけた本はいつの間にか中途はんぱ集中力なくてこまったもんです。

と続けば、さもありなん、作者の気持ちがしみじみとよくわかる。さらに、

・桟橋のヨットがゆれる秋の風白波たてば人かげもなし

・秋晴れの真上を見れば青々と今にも空にすいこまれそう

・遥かなる星をながめて我がこころ宇宙の中に迷い込んだり

 

 

 


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