教育福島0132号(1988年(S63)07月)-028page
のCというスーパーまで出かけ買い求める。
入口に積んであるかごを取る。中に入ると、売り場にはあらゆる食料品が整然と並べられている。野菜や肉や魚やパン、バターなど一週間分の食料を適当に見つくろってかごに入れ、レジの所へ行く。そこには高校生と思われる女の子がいる。声をかけない。話をするなと言われているわけでもないのだろうがまったく声をかけない。私も無言でかごを出す。女の子も無言で、台の上に載せられたかごの中から一つ一つの食料品を出して計算機に値段を入れ、別のかごに移す。支払いを済ませ、別の台の所に行って、ビニール袋に食料品を入れ外へ出る。
この間、私は何も話をしないで必要なものを手に入れたわけである。支払いをする時、女の子は「ありがとうございました」と言ったような気もするが、思い出せない。
石住の雑貨店では、「洗剤をくれ」と言うと「これはよくおちる洗剤だ」とか、「一人分ぐらいの洗濯物なら、このくらいの量がいい」とか、あげくは「洗ってやるから持ってこい」とか言うのである。
それにひきかえ、さっきのスーパーでのありさまは。自分が買い物をしていながら、まるで別の自分が買い物をしている姿をビデオで見ているようであった。わずらわしさのないかわりに心のどこかに虚しさが残っている。
この虚しさは今にはじまったことではない。たしか、二十数年前から味わってきたように思われる。そのころ経済の高度成長、科学技術の著しい進歩により至るところ都市化の現象が現れた。それに応えるように、家庭において言葉による意志や感情の伝達交換をすることがなくなってきた。日常生活での自然な言葉のやりとりがなくなってきた。人間の孤立化が叫ばれてきたのもこのころからであった。
明日は、あの雑貨店で、さし向けられた丸いすに座わり、進められるままにお茶を飲んでこようと思う。
(いわき市立石住小学校長)
自然に親しむ
山田定
日頃、子どもといっしょに過ごすことが少ない。「子どもの日」を選び、子どもたちと弁当持参で山にでかけることにした。目的地は特に決めていなかったが、新緑のきれいな近くの山で、一日のんびり過ごすことにした。
家を出てまもなく、小学校時代の担任であった先生が川内に転勤されたとき、級友とともに招かれ、案内してくれた平伏沼を思い出した。天然記念物のモリアオガエルの生息地である。今でもその時が懐しく思い出される。たしか、麓から約五十分近くかけて登ったのを覚えている。上の子どもは小学校四年生、当時の私の年齢に達している。下の子どもは小さいが、何とか登れそうなので、行ってみることにした。
道路わきの案内板を頼りに車を進めた。案内板では約六キロメートルであったと思うが、着いたところは、麓ではなく、沼から二百メートルぐらいの地点であった。昔登ったコースとは違う方角に、車が登れる林道がつくられていたのである。親子で五十分ほどの山登りを考えていた私は、がっかりしたのである。今回は五月であったので、樹上の産卵を目にすることはできなかったが、沼は昔のままであったのを見て、ほっとした。
山村を中心として、過疎化が進んでいることは承知している。また、そうした地域の活性化を図るための運動が、各地でおこっていることも知っている。しかし、それらのなかには、観光開発的なもので、都会の人々をいかにして地方に足を向けさせるかといったものもある。ふだん、人工的な環境の中で、便利で、豊かで、快適な生活を送っているはずの人々が、山や海などの自然を求めてでかけることが多いのは、自.然の中にいるとき、本当に心やからだが休まるからであろう。決して、便利さだけを求めているのではないと思うのである。自然に親しむこととは、不便さも考えあわせてのことなのではないのだろうか。
森林浴が疲労回復に大きな効果があることは、テレビでも紹介されて久しい。また、近年のバードウォッチングや山野草のブームは、野鳥や野草そのものに、自然の香りを感じ、自然のもつ不思議な魅力に触れることができるからであろうか。「地域の活性化と自然保護」なかなか難しいことである。しかし、自然を大切にする気持はもち続けたい。NHK特集地球大紀行−総集編「太陽系第三惑星四十六億年目の危機」の映像が甦ってくる。
(県立双葉高等学校教諭)