教育福島0132号(1988年(S63)07月)-030page
んだ動植物が腐敗するのは、生体を構成していた規則正しい構造がバラバラに分解しているからで、砂糖が水に溶けるのと同じように、秩序から無秩序への変化である。つまり、エントロピーとは、無秩序の度合を表す測度なのである。
かくして、生体は、この法則と全く逆であり、秩序の維持・形成にはエントロピー価を小さく保たなければならない。これが生体の特徴でもある。もちろん、この考えは、行動面にも適用されるσ生体は、内外の変化を情報として取り込み、行動の方向や量の調整に統合しながら、そこでの変化に対応、又は対抗する秩序の立て直しや当人にとっては新しい秩序の構成によって相互交渉が続けられる。
しかし、この時、そこでの変化が大きすぎたり、急激だったりすると、秩序の立て直しや新しい秩序の構成が間に合わず、いろいろな形で混乱が一時的、又は長期間起こることがある。われわれは、このような混乱状態を問題行動といっているのである。問題行動をこのように考えるなら、自傷行為と同様、登校拒否なども、エントロピー価増大の指標となり、人生の危機を知らせる警報ランプと見ることができる。
(県養護教育センター事業部長)
見えないもの
星文人
四月一日、新任地檜枝岐村への道路は両側が雪の壁であり、土の見えない校庭は、冬の厳しさを物語っていた。
そして、一か月過ぎたある土曜日、学校行事の一環として、愛鳥の日の活動が行われたのである。その内容は、丁二年生が絵や作文の発表、三年生以上は、四つの班に分かれて巣箱を村の公園の立木に取り付ける作業である。それが終わると、村内の道路を中心とした清掃活動である。この二つの活動を通して考えさせられたものがある。
その一つは、同じ週の各学級の道徳の授業が、これらの活動と関連づけられた主題で計画されており、子どもたちが真剣に取り組んでいることである。「道徳教育は、学校の教育活動全体を通して行うことを基本とする」のとおり、実践されている。
もう一つは、村内にほとんどごみがないのに、村はずれに出ると、雪の消えた道の両側には、驚くほどの空き缶や紙くずが捨てられている。この道路を通る観光客のほとんどが、尾瀬の景観を楽しみ、さらに尾瀬では、ごみの持ち帰り運動が展開されているというのに、なぜ村はずれだけが汚されているのだろうか。
子どもたちの集めた村はずれのごみの山は、見えないものへの挑戦である。子どもたちを信頼するしないは別問題として、学校での生活の場が尾瀬であり、校門を出てしまえば村はずれの道路のようにさせたくないものである。
最近読んだ本に「日本一のビルには、日本一の基礎がある」と書いてあったが、これは、高いビルを見上げてその高さに感動するが、その高さを支えている基礎があることを考えて見上げると、感動は、全く次元の異なるものになるということである。
教師が子どもを見る場合も同じで、見えない子どもたちの心を見抜く力をつけていくことが、大切である。
私は、教職に就いて二十年目になるが、マラソンで言えば、折り返し地点を過ぎた所である。初めの二年間は、中学年の担任で、その後、十七年間は高学年担任である。学校を高学年中心にしか見ることができなかったのである。四年前、二年生を担任したことで、学校全体がある程度見えてきたという経験がある。この経験は、生徒指導にも生かされ、最近は、見えるものへの対応だけでなく、見えないものを見ようと努める自分に気づきはじめたのである。気づかせてくれた地域や子どもたちに感謝している。
尾瀬の玄関口で、全家庭に温泉のある檜枝岐である。民宿も多く、奥会津の観光地として脚光を浴びているが、本校で実施している愛鳥の日や清掃活動の実践を考えるとき、美しい環境をつくり、自然を保護する心を大切にしていかなければならないと思う今日である。
(檜枝岐村立檜枝岐小学校教諭)
この美しい自然を守る心を・…(夏の尾瀬)