教育福島0132号(1988年(S63)07月)-032page

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に母親としての喜びがわいてきて、だんだん親としての愛情と自覚を持たせられました。

とはいえ,仕事を持ちながら子どもを育てることは大変です。何度教えても、遊びに夢中になっておもらしすると、ついかっとなってしまいます。娘はただ泣きじゃくるだけ………。

その都度、他に言いようはなかったかと反省させられます。ところが、やさしく教えた時は、素直に「ごめんなさい」と言う。親の対応のしかたで、こんなにも違うものかと考えさせられます。

「きれいなお花、よう子ちゃんにプレゼントしたよ」というので「さすがお姉ちゃんね」と言うとうれしそうな顔で、更に→妹の面倒をみようとします。

 

こんなちょっとした事からも、母親としての自分の一言の重さを思い知らされています。このような子どもとの日を繰り返しながら、担任としてのあり様をつねづね反省させられている毎日でもあります。

自分の子と担当する子をダブらせながら、子ども一人一人から教えられる事柄を生かして、更によりよい教師であり、母親でありたいと願っているこのごろです。

(会津坂下町立若宮小学校教諭)

 

K君との出会い

 

K君との出会い

山田弥平

 

は、今年三月、高校進学をしないで東京の建築会社に就職をした生徒である。

 

月に三度ぐらい夜の十時頃になると電話のベルが鳴る。いそいで受話器をとると、開口一番のきまり文句は「先生、今何やっていたの」とx君の声である。K君は、今年三月、高校進学をしないで東京の建築会社に就職をした生徒である。

K君との出会いは、K君が一年生の時、技術家庭科の補欠授業にいった時であった。その時間は本立ての製作をしていたが、その作品の出来上りが他の生徒たちより群を抜いてすばらしかった。「うまいね」とほめたことが親しくなるきっかけとなった。

私は彼を学級担任として受けもつことはなかったが、教科指導とバドミントン部の顧問として一緒だった。部の活動は単なる生徒と教師ということだけでなく、身近に肩のたたき合える間柄であった。

K君が大工見習いとなったのは、高等学校に進学しても、変化の激しい社会で、卒業期の就職動向がどう変化するのかの不安と、高等学校の生活が合わなくなって中退などしないだろうかなどへの不安があったためのようである。

以上のことだけで進路決定の判断をしたのではないだろうが、窮極において、自分には何が出来るのか、何が好きなのか、そして自分には何が合っているのかを自問自答しての結果なのであろう。

勉強については、中学校卒業の段階では、まだ向学心に燃えていたので、働きながら学ぶ定時制高等学校を受験した。しかし入学はできなかった。

昭和六十年に出された臨時教育審議会答申で、生涯学習の一環として定時制、通信制高等学校について、だれでも、いっでも、どこでも、必要に応じて高等学校教育が受けられる単位制高等学校の構想が打ち出された。K君とのかかわりで調べてみると、単位制高等学校は教育内容等の在り方にも新しい視点で改善充実の方策が検討されているので、私も受講したくなるような学校の内容であることがわかった。K君のような生徒のためにもこの単位制高等学校の具体化を一日もはやく実現し、高等学校の教育の機会を保障して欲しいと思うのである。

五月の連休に二日間休みをいただいたのでK君は久々に郷里に帰りたいと言ってきた。私は「八月まで待てないのか」と答えた。酷な言い方だったが、修業の身であるので我慢させようとした。そして八月のお盆休みには会って一緒に語り明かそうと言った。電話の声は涙声に変わった。私もその声を聞いて目頭が潤んだ。私はK君に対してやれるこ一とは、K君の心の支えとなってやれることぐらいである。

教育は人との出会いである。K君とは生涯付き合う仲間となりそうである。八月のお盆まであと何日あるだろうか、k君との再会を楽しみにしている昨今である。

(塩川町立塩川中学校教諭)

 

かっこうの鳴くころ

白坂瑛

 

今朝もさわやかなかっこうの声で目をさましました。私は、かっこうが鳴

 

今朝もさわやかなかっこうの声で目をさましました。私は、かっこうが鳴

 

 

 


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