教育福島0133号(1988年(S63)09月)-007page

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人体に必要な食塩でさえ、適量を超えて摂取すれば有害であることはよく知られているし、合成洗剤による環境汚染も、洗濯物の量に見合った量の適当最少量を使うことによってかなり防止できるのではないだろうか。「量」に関してだけいえば、粉石けんを用いるよりは、必要量だけこすって溶かし出す固形石けんの方が合理的であるといえよう。

今の理科の教科書の中には、このような視点が欠けているのではないかと思われてならない。確かに、ここに例示したような断片的な知識を寄せ集めても、科学の深奥を究めることにはならないし、まして、それらを数珠つなぎにしただけでは理科のカリキュラムを構成することは不可能であろう。多くの事実をまとめて理解するためには、どうしても理論的な構成が必要である。けれども、今の教科書は理論偏重で、将来、大学の理学部に進学して専門の科学者になることを希望している生徒たちのためだけにあるように、筆者には思われてならないのである。

しかし、多くの生徒たちは、どちらかといえば文科系に進学するものと思われる。その場合、専門の自然科学者にならない者のための理科が当然あるべきで、その中身は「生活のための科学」であるべきであろう。

科学技術の進歩は、われわれの生活の中から、手頃な教材を抹殺してしまった。「食塩」は「塩化ナトリウム」となり、「焼き塩」は無意味になってしまったし、「マッチ」はストーブやこんろの自動点火装置にとって代わられようとしている。新しい材料は、ブラックボックスのように、外から見ただけては簡単にわかるものではない場合が多い。それでも、水、空気、金属、セラミックス、衣食住の材料などをうまくつないでゆけば、わかりやすい、実用的な教材群ができ上るのではないかと思われる。そして、これらの材料のつなぎには、どうしてそのような考えに到達したかという過程、すなわち、科学の歴史をふんだんに盛りこむことが有用であろうと思われる。

 

尾瀬ケ原での水質調査を指導する筆者(左上)

尾瀬ケ原での水質調査を指導する筆者(左上)

 

提言

 

 

 


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