教育福島0133号(1988年(S63)09月)-029page

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教師になってみて、事務とは違った面での責任の重さを感じています。一人一人の子どもの能力を少しでも伸ばしてやれるように、教える立場にある者としては、子どもたちが努力する以上に教材研究等に努力しなければならないと考えています。忙しい毎日で疲れている時もありますが、朝出勤してきて元気な子どもたちの顔を見ると「今日もがんばろう」というファイトが湧いてきます。

(矢吹町立中畑小学校教諭)

 

地球の裏へ

片野淳一

 

今ごろブエノスは冬の最中。あの子どもたちは元気にやっているだろうか。

 

今ごろブエノスは冬の最中。あの子どもたちは元気にやっているだろうか。

あの子たちとは、私がこの三月まで担任していた、アルゼンチンはブエノスアイレス日本人学校の小学部一年生のことである。たった十名のクラスではあったが、日本とは大きく違った環境の中で育つ子どもたちであった。

私がブエノスアイレス日本人学校へ派遣されたのが、六十年四月。海外子女教育の一翼を担うという重責には力不足の自分ではあったが、三年間精一杯勤め、この三月に帰国した。

ブエノスアイレスにいた三年の間に、海外に学ぶ子女に対する国内の情勢が、向い風から追い風に転じてきたとはいえ、小学生たちにとっての状況は大きく変わることはなかった。

私が担任していた十名の一年生のうち、七名までが外国生まれの外国育ちで、一時帰国の経験はあっても、日本を知らない子どもたちであった。現地の幼稚園は日本と異なり、遊びが中心で、その幼稚園の経験しか無いまま日本人学校へ入学してくるのである。

週五日の授業のうち、一年生でも三日間の六校時授業がある。日本人学校は、日本の教育課程を週五日の中で消化し、さらに、現地理解のためのスペイン語が全学年に二時間加わる。そのために六校時授業にもなってしまうのだが、そこはそれ一年生のこと、午後になると極端に集中力が落ちてしまう。くたびれて寝てしまう子どもも出てくる。「先生、○○君寝ているよ」「いいから寝かせておいてあげなさい」というようなやりとりが交わされることもしばしばである。

日本を知らない子どもたちに、日本を教えることの難しさを痛感したのは数えあげたらきりがないが、国語は、やがて日本へ帰ることを考えると、最も頭を悩まさなければならない教科であった。話をすればスペイン語の方が上手というような子どもたちである。その子どもたちに、帰国して困らないだけの国語力をつけるのは容易ではない。授業の中に発表の機会を特設するとともに、単元ごとに朗読の検定を行った。

また、季節が日本と逆であることからくる苦労もあった。四月の入学の時にはブエノスは秋たけなわであり、一年生の理科は、前年の一年生が植えた朝顔の種とりから始めなければならないのである。子どもたちに植物の成長を学ばせるためには、前年度からの周到な計画と、教員間の連携プレーが不可欠である。

子どもたちにしてみれば、ブエノスアイレスで生活することは、自らが望んだことではないわけであるが、与えられた条件の下、彼らなりにがんばっている。そんな姿を思い出すにつけ、自分は帰国したが、なんとも気になってしかたがないのである。そして、彼らに私たちがしてあげられることは何であろうかと考えている今日このごろである。

(原町市立原町第一小学校教諭)

 

狐火の郷愁

 

狐火の郷愁

鈴木 勉

 

かったが、それでも駅があることを子どもながらに誇りに思ったものである。

 

かつて、私が少年時代を過ごした北杉田一現二本松市杉田町)は東北本線杉田駅界隈にあり、旧国道に沿った細長い村落であった。杉田駅は信号所から昇格したばかりの小さな駅で、各駅停車の普通列車しか止まらなかったが、それでも駅があることを子どもながらに誇りに思ったものである。

その南北に走る鉄路越しに田圃が広がり、その彼方に阿武隈の青い山並みが霞んで見えた。その山並みを地域の人々は「東山」と呼んでいた。また背後にそびえる安達太良の連峰を「西山」と呼び、当然、村の一部に属する西山は身近な山であり、東山は遠く無縁の山であった。

しかし、その無縁の東山に春先の夜には決まって「狐火」を見たものである。ともし火が列になって山の中腹を

 

 

 


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