教育福島0133号(1988年(S63)09月)-031page
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柔らかな心
渡部美智子
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長瀬幼稚園に転勤して一年半。長年、園児とっきあい、幼児の行動特性に慣れているはずなのに、日々新たな発見に驚き、感動し、幼児の純な心がうらやましくなる毎日である。
何ものにもとらわれない柔らかで自由な心は、どのような環境にも敏感に反応し、積極的に遊びを作り出す。遊びの創造においては、まさに天才である。
長方形の小さな紙にハサミを入れ、折り目をつけただけでうさぎになり、折り加減を変えるだけでくわがた、丸めてかたつむりと、まるで手品師のよう。形はごく単純なのに、よく特徴が表現されているのである。
完全に脱帽。教えるものと教えられるものの立場は逆転してしまう。
ごっこ遊び、劇遊びでも、幼児の本領が遺憾なく発揮される。
ボールを抱えている幼児に、「お母さん、卵を温めているね。あっ、かわいいあかちゃんが生まれました」卵の割れる擬音を出す。即、変身。小鳥のあかちゃんになって飛び回る。演じているのではなく、心は完全に小鳥になりきっているのである。
彼、彼女等のキラキラ輝く無邪気なひとみを見ていると、未熟な幼児、成熟した大人と単純に割りきれない思いが強くなってくる。
加齢による肉体の衰えを止めることは不可能であるが、しかし、心の柔軟さ、感受性だけは失いたくないと念じ、また、保っているとひそかに自負していた私。だが、あらゆる廃物から小さい手で思うまま遊具を作りだし、どんな形にでもなってしまうつきたての餅のような柔らかい心を目のあたりにすると、自分の心が、かびの生えた飾り餅のように感じてくるのである。
偉大な発明や発見をした人たちは、高い知能、不断の努力があったことはもちろんだが、旺盛な好奇心、身の回りの自然や出来事に感動する心、固定観念にとらわれない自由な創造力、伸び伸びした想像力など、幼児期の柔らかな心を、失うことなく保ち続けた人たちなのではないだろうか。
柔らかな心に接する幸せを感謝している毎日である。
(猪苗代町立長瀬幼稚園教諭)
今 昔
谷中三夫
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「今の子どもたちは、遊び方を知らない。食べ物でも、季節を問わず店先に並べられ、季節感覚がなくなっている。ナイフで鉛筆も削れない」
「昔は、本当によかった」と、よく言われる。
確かに、私の子どもの時には、季節折々の遊びもし、野山を駆け回っては木の実でポケットを膨らませ、友だちと分かちあう。木を切り、竹を切っては遊び道具を作り、完成した時の喜びを味わう。田植え、稲刈りをして、働くことの尊さをも知った。
中学生の時にスケートの上手な男の先生がいた。先生は本物のスケート。我々は、先生から教わって作った竹のスケートを持ち、氷の恐ろしさを教えられて、川、堤に氷滑りに連れていかれた。スイスイ滑り回る先生の格好よさ。本物のスケートを借りた時の喜びと、靴のぬくもりは、今でも忘れられない。
これら一つ一つがみな楽しい思い出であり、自分の心をはぐくんでくれたように思う。
高度経済成長を続けている現在、子どもたちは、新しいものに興味と関心を持ち、生活の場に取り入れ、遊びのリズムをつくっている。
確かに、我々の幼なかった日とはかなり異なっている。本来の遊びは、複数でつくり出し、その中で、社会性、創造性を身につけていくはずなのに、孤立化している子どもたちの遊び…。
こんな中で、「今の子どもたちは…」「昔は…」などとばかりは言ってはいられない。
今、子どもたちは、「一日も早く、大人たちが頭を切り替え、人間らしい生き方を教えてほしい」と叫び、強く求めているような気もする。
特にこれからの社会は、科学技術が著しく進歩、情報化と国際化の進展、人々のもつ価値観の多様化など、あらゆる面で、広範囲に急激な変化が起こってくるであろう。このように急変する二十一世紀の社会に生きていく子どもたちのために、私たちのなすべきことは何かを考え、新しい技術を取り入れながら、基礎的・基本的な技能を確実に習得させるとともに、一人一人の能力適性・興味・関心などに応じた教育を行い、主体的に変化に対応でき
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