教育福島0133号(1988年(S63)09月)-032page

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る能力の育成を目標に、これからの社会をたくましく生き抜く力を身につけることのできる人間に育てていきたい。

昔のよき楽しい思い出を糧として、今の子どもたちに応えてやるのが私の義務でもあろう。

校庭の芝生の雑草取りをしながら、中学時代の思い出話をしてやる。四人・五人と集まり、うらやましそうな目をして聞き入る。腰痛の我が身を忘れて相撲をとってやったら、大喜びである。

たくましく、豊かな心を培うことを願いながら雑草取りを続けた。

(双葉町立双葉中学校教諭)

 

津田里子

 

機会も多く、母の思い出話の姿と重なって、心から敬愛していた父であった。

 

去る五月、義父が他界した。教員だったので、在職中の父の様子を耳にする機会も多く、母の思い出話の姿と重なって、心から敬愛していた父であった。

弔辞や弔問客の昔話の中に、私が思ったとおりの“先生”だった父がいた。「お父ちゃんの行く学校ならどこも一番いい学校だ」と言って、子どもが喜んで父の赴任校へ転校していったこと、「酒が飲みたい時は、いつでも俺の家へ来い」が口癖だった父のもとへ、毎晩のように客が入れ替わり立ち替わりやってきては、盃を酌み交わし、ついには、外出中の母が帰宅すると、施錠したはずの玄関戸が外され、中では顔見知りの教員たちが家人の留守も一向構わず、酒盛りの最中だったこと、そうした客のもてなしと六人の子沢山で生活も余り豊かでないなか、父が丹精していた菊の堆肥用の落ち葉が入った炭俵ばかりの引っ越し荷物に、手伝いの人から、「まるで狐の嫁入りだね」と評されたこと、「家庭訪問は軽々しくするな。生徒は学校で精一杯いい格好をしているんだ。その気持を酌んでやれ。用があるなら親を呼べ」との父の言葉−商売家に生まれ育った片親の私は、家庭訪問が嫌いだった。煤にまみれて働く学問の無い母に会いに、店と住まいの区別もないところへ来る担任を恨んだものだった。「先生、私だけを見てくれ」そんな切ない子どもの心の機微に、教員の家庭というごく普通の環境で伸び伸びと育った父がなぜ触れ得たのだろう−、父の教えを受けて教師になった人たちの夢は、父のような先生になることだったことなど、私が実の娘としてじかに見た光景のように、ただただ懐しく、やさしく胸に泌みてくる。片親育ちの私を哀れんだ天が、その分までもとあらかじめ親子の縁を結べるように配剤しておいてくれたとしか思えない、慈愛にあふれた父であった。

父は晩年、特に口数が少なくなり、私と話すことも殆どなかったが、父の名を汚すまい、いっかは父に「一人前になったな」と言われたいという気持ちが、仕事の支えだった。父は、「どこにも生徒はいる。いつも生徒といる」という信念で、どこで生きるかではなく、どう生きるかを貫いた教師だった。未熟者の私がどう努力しても、父との隔たりは縮まるはずがないのに、さらに遠くへ父は行ってしまった。しかし父の魂が身近にあると信じながら、一歩一歩父のあとをついていきたい。

(県立磐城女子高等学校教諭)

 

自然教育雑感

 

自然教育雑感

松本 学

 

、それでいて荒々しく躍動する心をとても気に入っていたのを覚えています。

 

小学校時代、父に連れられ、近くの堤防ではじめて手にしたヒメシロチョウのことが今でも鮮烈な感動をもって私の、心をとらえます。胸をはずませ、、ネツトの中で弱々しくもがく彼女を壊れ易い宝石でも扱うように、緊張に肩をこわばらせ、それでいて荒々しく躍動する心をとても気に入っていたのを覚えています。

中学時代、初めて買ってもらった天体望遠鏡で観測した土星、木星、金星の美しさと驚き、初めて撮った星の写真、一晩中、神話の世界のとりこになりました。できあがった写真を教室で、好きだった女の子にそっと見せた時、彼女の瞳に星が輝いていました。

高校時代、星一彰先生の生物の授業で自然保護活動の意義、生物を科学的に調べる方法に感動して、毎日一冊、

 

 

 


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