教育福島0134号(1988年(S63)10月)-024page

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を流したことがたびたびあった。しかし、いつしか何ごとも人並にやりとげようとする心が幾分育ったとみえ、教職の道を歩むようになった。

よく生徒に「小さい時から先生を目指していたの」と聞かれることがある。「はじめは、人前に出ない片隅でやれる仕事につこうと思っていた。でも、いっしょうけんめいがんばって、こうしてみんなの前に立てるようになったのだよ」と答える。時には、「手が不自由なために、どうしてもできないことは何ですか」といささか率直すぎる質問を受けることもある。そんな時は、「少々時間がかかるが、足まで使えば、たいていのことはできる。でも、ネクタイを結ぶのだけは、妻の手助けを受けているんだ」と答える。そして、「君たちは、身体を大事にして、傷つけることがないように注意しなさい」と付け加えるのを忘れない。

私は卓球が好きだ。幼いころ、母の裁縫台を使って遊んだのが始まりで、教員になったときは、卓球部を担当して、生徒に練習をつけてやれるまでになった。その卓球部も、今年は、県大会に駒を進めることができた。障害を持つ私の指導に素直に従い、大きな成果をあげた生徒に頭の下がる思いである。

先日、カウンセリング講習会に参加したときのことである。その中に、たまたま両手を使う演習があった。私は、同じグループの人たちに迷惑をかけるのを恐れ、その演習からはずれようとした。ところが指導の先生がすぐに声をかけてきて、私にもできる方法をあれこれ教えて下さった。私は、これまで自分の機能を可能な限り生かす努力をしてきたつもりであったが、このことによってまだまだ自分に甘さがあったことを思い知られたのである。

近ごろは、以前にくらべ両手が不自由であることについてあまり気にかけることが少なくなってきている。これは、周りの人々の温かい気配りと自分の努力の結果であると思っている。とは言え、ともすると自分が健常者だったら、あれもできたのにとか、これもやってみたいなとか夢想することがある。また、障害を恥かしいと考え、自分の行動を消極的なものにしてしまうこともないわけではない。

しかし、これまでの経験をふりかえってみるとき、私が「恥かしさ」をのり越えて、積極的に行動したことが、生徒に何かしらの良い影響を与えてきたことがよく分かる。私は、これからも自分に課せられた使命を自覚し、日々の教育実践にがんばりたいと考えている。

(相馬市立玉野中学校教諭)

 

生徒とともに

 

生徒とともに

斎藤澄子

 

「おはようございます」

 

「おはようございます」

四月一日。着任の日、校門を入ると明るく澄んだ声であいさつをしてくれた生徒がいた。うれしかった。「私は今日からこの学校の教師なんだ」という思いが大きくなってきた。

 

「先生もっと強いの打って」

野球部の副顧問として、生まれて初めてノックをしたり、一緒に走ったり、十三名の部員と共に部活動をする。特設の陸上部や水泳部もある。分刻みの放課後の活動。身震いする程寒い日も雨の日もプールに入って泳ぎ込む。厳しい練習に耐えてがんばっている生徒たち。

八月二日。河沼方部水泳大会の日、計時係としてストップウォッチを押していた私のコースに次から次とトップでゴールインする顔は西方中の生徒である。思わず顔がほころぶ。保護者のほとんどが応援に来ている。大きな声援が飛ぶ。男子百五十四点、女子百四十点で共に優勝。女子は十一連勝ということだ。

「おめでとう」

「よかったね」

「さすがだな」

みんなの眼に喜びが輝く。全職員、全生徒が一つの目標に向かって、ともに鍛えあった成果であろう。

学区内には、生徒たちだけで行う「虫送り」という伝統的な行事がある。初夏の夕暮れからの行事に全職員も参加した。

「これ先生の分ね」

と一か月も前から準備した手作りのちょうちんを渡してくれた。小さい子どもたちの面倒をみながら「でんばら虫のおいくらよいよい」と大声ではやし、大八車に乗せた「虫送り太鼓台」を引いていく。学校では、一つ一つ指示されないとなかなか出来ない生徒が小さな子どもや先生方にまで気を配って一つの行事を見事に演出する。このような活動を通して地域の一員としての自覚と自信が育っていくのであろう。

 

全校生三十三名という小さな学校でもお互いに学び合い、磨き合えば大きな感動の場を作っていくことができることを知った。また、生徒の感動が教師の感動を呼び、教師の感動が生徒の

 

 

 


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