教育福島0135号(1988年(S63)11月)-024page

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あった。しかし、明るい笑顔の彼女を前にして、私の腹は決まった。「よし、自分なりの『日本』を伝えよう」と。

ヘレンは笑顔を絶やすことのない、明るい素直な生徒だった。外人≠ニいうだけで身構えてしまう本校の生徒たちと違い、彼女の方から、生徒の輪の中に進んで入ってきた。『笑顔は万国共通の最もすばらしい言語である』と、私は、ヘレンからしみじみと教えられた。しかし、ヘレンも同じ十七歳の高校生である。ファッションや、テレビ番組のことにも強い興味、関心を持ち、生徒たちと急速に打ちとけていった。

夏休みを境にして、ヘレンの日本語の能力は驚くほど進歩した。日常の会話はかなり堪能になったし、ひらがなの読み書きもマスターした。苦手の漢字も少しずつ覚えてきている。今も一日に五つの新しい漢字を覚えようと努めている。今回の、京都、奈良への修学旅行をとおしては、彼女自身の目に映った『日本』もかなり鮮明になってきたにちがいない。本校での生活も、この十月で十か月が過ぎようとしている。彼女は、日本語、英語だけでなく、書道、華道、数学など、ほとんど他の生徒と同じ授業を受けている。また放課後は陸上部で活動している。もちろん理解できないことが沢山あるにちがいない。しかし、持ち前のファイトで、三年も前から富岡高校の生徒だったような顔で机に向かっている。こんな彼女を見ていると、私は初めの頃の不安がうそのように思えてくる。

ヘレンの将来の希望は『日本とオーストラリアの掛け橋となるような仕事をすること』である。私は彼女がこんなはっきりした人生の目標を持っていることをすばらしいと思う。

六十四年の一月に帰国する彼女に、私はどれだけの『日本』を伝えることができるかわからない。しかし、いつの日か彼女が、オーストラリアと日本の大きな掛け橋となって、私たちの前に現われることを心から期待している。

(県立富岡高等学校教諭)

 

▲自分の作品を前にした留学生ヘレン・ショイ・ゲラーティ

▲自分の作品を前にした留学生ヘレン・ショイ・ゲラーティ

 

いつくしみの房

目 黒 美智子

 

ような空の青さは、私の心に焼きついて生涯忘れ得ぬものの一つとなった。

 

二年前、父と母が同じ日に入院した。入院後まもなく、父は意識不明となり、母は連日四十度の熱にうかされ、二人とも死線をさまよっていた。このまま手に手をとって天国へ旅立たれでもしたらどうしょうかと心細い毎日であった。私が一人前の教育者になるまで生きていてほしいという願いもむなしく、父はこの世を去ってしまった。その日の抜けるような空の青さは、私の心に焼きついて生涯忘れ得ぬものの一つとなった。

私は長い間満ちあふれるいつくしみの数々を受けてきたのに、両親に対して何一つ孝養を尽くさずにきてしまった。その後悔が、今これを書かせている。

無口で照れ屋の父はいつもおだやかな表情をくずさず、自分のことをあまり多く語らなかった。父にしかられた記憶は、ただの一度もない。短歌を詠むのが好きで、時々、朝日歌壇に掲載された。門外漢の私にはその良さが分からず、首をかしげていたものである、

そんな父が地元の小学校の校歌や園歌を作詩したとか、父の詩がレコードになったとか、外部の人から聞かされても信じ難かった。本人はもちろん、家族のだれも話さなかったからである、

葬儀の数日後、五十歳前後の男性が数人訪ねてこられ、父の遺影の前で突然うめくような大声で泣き出された。そのあまりの号泣に、私たちはただおろおろするばかりであった。

その方々は心を落ち着けられると、小学校時代、父の世話になった事がらを口々に話された。初めて聞くそれらの話に私は改めて父を見直したものである。父は進学を志す生徒への経済的な援助を惜しまなかったそうである。

その当時、私の家では豊かすぎる生活をしていたのではなかったけれど、母は一度も愚痴をこぼしたことがないばかりか、私たちに不自由な思いをさせたことがなかった。片倉小十郎景綱の血をかすかに受け継ぐがゆえに、事あるごとに文武の精神を教えこまれたという母は、私たちには涙さえ見せたことがなかった。

病弱だった母はつらいこともたくさんあっただろうに、苦難に際しても望みを失わず明るく乗り切ってきた。私に神の存在を教えてくれたのもこの母

 

 

 


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