教育福島0135号(1988年(S63)11月)-028page
心に世話をし育ててくれている姿に感謝の気持でいっぱいになる。ところが、子どもたちの態度から、母親としての愛情が不足していると反省させられる時があり、母親としての責任を感じてしまう。
私は、現在心身に障害のある子どもたちの教育に携わっている。幸いにも純粋な心で物事に接し、素直に指示に従ってくれる三名である。その中で、六年女子のM子は混合性難聴で、補聴器を装用し会話は無理であり、軽度脳性小児まひを持つ重複障害児である。
M子に、「雨」の指導をする時には実際に雨の中で「冷たい」と肌で感じさせる。そして、「水」と関連させ手鏡を用いて口形を映し、言語訓練を重ねている。予想に反してその効果もなく、投げ出したい気持ちになることもあったが、できないなりにもやろうとするM子の真剣さに心を打たれ私自身が逆に励まされる。「M子を何とかしなければ」と思い、まわりから見ればこっけいな光景かも知れないが、二人で必死になってアイウエオ体操(口形と発声練習)に取り組むのである。
また、運動会の練習の折には、組体操で相手の肩から手をはずし、一メートルの高さから落ちて額に裂傷を負ったことがあった。どこが痛いのかを言うこともできずただ顔をゆがめるだけのM子を見て、医師は、「この顔は、苦しんでいる様子ですか」「口をパクパクするのは、いつものことですか」など、質問を繰り返す。M子との毎日の生活から、ほとんどの生活を知っている私は、的確に医師にその状況を伝えることができた。運動会当日には、けがにもめげず組体操を見事なできばえで終了し、父母と共に喜びをかみしめた。
M子の指導を通して、心身に障害を持つ子どもたちは、まわりの大人たちの愛情不足によって、「心のゆがみ」を生じている気がしてならない。家庭でも、母親がわが子に愛情を注がなければ、「豊かな心」を持つ子には育たないであろう。これからも教師としての愛、母親としての愛が子どもたちに伝わる≠アとを願いながら、それぞれの立場で、惜しみなく全力を尽くしていきたいと思う。
(鹿島町立鹿島小学校教諭)
大人の愛情につつまれて心豊かな子どもが育つ
一年生とともに
亀倉由里子
ジリリリ…。目覚ましのベルで朝の訪れを知る。あわただしく朝のしたくをしながら、今日一日の日程を頭に描く。窓から眺める空は、今日もすっきりしない。何より外で走り回ることを好む子どもたちが、青空を待ち望んでいるというのに……。
学校に着き、教室に足を運ぶ。「おはようございます」のあいさつもそこそこに、子どもたちは私を取り囲む。
「せんせい、しゅくだいわすれちゃった」
「○○ちゃんがね。あさくるときうしろからおすんだよ」
「きょうのたいいく、なにやるの」
いっせいに口を開く一年生には、「待つ」ということがなかなかできない。時として、私は聖徳太子のような能力を身につけることを強いられる。「緊張」の授業。教材研究の出来、不出来は、こんなにも子どもたちの反応に表れるものなのか。私はあせりにも似たものを感じる。そんな私におかまいなく、あっちで手わすら、こっちでおしゃべりの子どもたち。そんな時には、とっておきの手を使わざるを得ない。
「あっ、××ちゃんは、姿勢がいいねえ。どの列が一番かなあ」
とたんに、背筋は伸び、手はひざの上、視線は前へ。しかし、このような言葉かけをせずとも、常に授業に集中させられるようにしたいと思う。
給食の時間は、子どもたちがことのほか素直になる時間である。「きょうのおかずはなにかなあ」とばかりに配ぜんの様子に見入る姿は、毎度の光景である。
「せんせい、せんぶたべちゃった」という声が、夏休み前よりずっと多くなった。また、おかわりの順番はじゃんけんで決めているが、勝った者が負けた者に自分の分をあげるほほえましい姿が見られるようになった。
こうした子どもたちの成長は、日常の多くの場面で見られる。わずか半年間ではあるが、彼らの成長はめざましく、生命のたくましさとでもいうものを感ぜずにはいられない。