教育福島0135号(1988年(S63)11月)-029page

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六か月前、私が教師として「初めて」児童の前に立ったとき、ぴっかぴっかの一年生も「初めて」出会う学級担任の顔をまじまじと見つめていた。そんな状況の中で、「みんなは一年生だけど、先生も一年生なんだよ。いっしょにおおきくなろうね」とあいさつをした。子どもたちと同じスタートラインから出発した私は、どれくらい成長したろうか。彼らが、一歩一歩着実に「おとな」になっていくのに、私は足ぶみばかりしていないだろうか。「転んだ後の起きあがる努力」を怠ってはいないだろうか。私自身、教師たるにふさわしい人間性を、日々の実践の中で磨きあげなければならない。元気あふれる一年生とともに、自分自身も成長していきたいと願う昨今である。

(船引町立芦沢小学校教諭)

 

「回 想〜少年の日」

東條 憲

 

に思われ、遠い昔の忘れ得ぬ少年の日の思い出が走馬燈のように去来する。

 

ダイヤモンドをちりばめたような星空の下で、流れ星を追ったことが、つい数日前の出来事のように思われ、遠い昔の忘れ得ぬ少年の日の思い出が走馬燈のように去来する。

母も八十八歳にして胃癌の大手術を受け、一時は、順調に回復したが、脳梗塞を併発し、集中治療を受けている。ベッドに臥す物言わぬ母を見舞うたび、ただ寂ばくの情に耐え、涙するばかりである。天皇陛下ご容体の報に接するとき、一日も早いご快復と母の長寿を願わずにはいられない。

昭和二十一年父が病死し、以来母は、戦後の荒廃した物資不足の中で七人の子どもを抱え、千辛万苦に耐え、弧軍奮闘した。逆境に立ち向かい、打ち勝つ母の姿を目にする度に、その精神力の強さには敬服したものだ。今も変らぬわらぶき屋根の粗末な家で、破れた障子から吹き込む風に親子八人身を寄せながらも、貧しさと苦しみの中、暖か味のある家庭であった。母の癖は、「いくら貧しくとも心だけは豊かでありたい」「誰が見てなくとも神様だけはいつも見ているのだから……」ということだった。

小学校入学直後、麻疹をこじらせ、死線をさまよいながら数か月病床についた。そのことが直接学業不振を招いたのだろう。生来ののんびり屋が、成績には全く無頓着で、高学年に進んでもますます低空飛行の状態に拍車をかけていた。そんな中で五年、六年担任のS先生との出会いは、私の人生に大きな影響を与えた。先生は、「人の心の痛みがわかる人間になれ」と、よく説かれていた。五年生になると放課後毎日のように残って算数の学習をした。今思うに居残りだったのだろうが、残されたという意識は全くなく、むしろその時間が楽しくさえ思われた。時々机の中にユーモア溢れる励ましのメモが入れられてあった。先生の卓抜した指導力と、教育への情熱とが私の学習意欲を目覚めさせ、かきたてたのであったろうか。以来、中学、高校と数学は得意教科とさえなった。幼心にも先生の人物と力量に深い尊敬の念を抱いていた。

先生が、流星観測をするからと、友人のK君と学校に泊まりに行き、一つ、二つと数えた流れ星、今でも心の片隅で光り輝いている。

冬の凍てつく寒い日、町の映画館に連れていって頂いた。生まれて初めて観た映画の題名は、確か「姿三四郎」だったと思う。大クリーンに映し出された迫力ある映像と音声に感激のあまり大声を出してしまった。スクリーンに反射された光の中に浮ぶ先生の温かいシルエットが脳裏に強く焼きついている。

S先生との出会いがなかったなら、落ちこぼれへの道を一直線に突っ走ることになり、どのような人生を歩んでいたか想像もつかない。

S先生の他にも、中学、高校と肉親にも優る深い愛情と教育にかける情熱をお持ちの先生方が多数おられた。

礎がぐらつけば天守閣も倒壊するように、生徒指導にあっては、基礎・基本を十分身につけさせることが、将来の己を生かす道ではないだろうか。

母の姿に逆境に耐え得る力と家族の絆の尊さを学び、多くの先生方からは、心を耕す地道な努力の大切さを学んだ、今、懐旧の念とともに、感謝の心で一杯である。

(県立清陵情報高等学校教諭)

 

音楽とともに

引地正光

 

ような重厚な音、このような音をかもしだすピアノ曲が、私は好きである。

 

軽やかで流れるような澄んだ音、重く胸をしめつけられるような重厚な音、このような音をかもしだすピアノ曲が、私は好きである。

十月のある日、福島市音楽堂で行わ

 

 

 


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