教育福島0136号(1989年(H01)01月)-027page

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子どもとの出会い

鈴木常武

 

大な敷地、太陽の国の一角にあって自然環境は他に類を見ないものがある。

 

県南地方でも雪解けが最も遅く寒さが残る昨年の四月、県立西郷養護学校に着任し、はや二年間の歳月が過ぎようとしている。本校は精神薄弱児の養護学校で、那須連峰が一望できる広大な敷地、太陽の国の一角にあって自然環境は他に類を見ないものがある。

当初、学校はおろかどんな生徒が待ちわびているのか全く知らずに不安を抱きながら学校の門をくぐる。四月六日(快晴)入学式当日、児童生徒たちは元気に登校、大きな声で「おはようございます」、ていねいにあいさつする子、握手を求めて寄り添ってくる子、嬉しさを表現しているかのように「あー」、「おー」と声を出しながら自分の手をかんだり、頭を叩いたりしている子など、この時から子どもたちとの出会いが始まった。今まで二十年近くの教員生活で体験したこともない雰囲気に包まれ、呆然としたが、体全身で朝のあいさつをかわす姿を見た時、純粋でかわいい子どもたちであった。

A君(中学部二年生)とは、学級担任をした時点から出会いが始まる。彼は発達の遅れと自閉症の障害をもった固執性の強い生徒である。学級の中でも知的面、行動面が最も遅れており、授業中、離席しては教室をかけ巡り、手をかむ自傷行為はひときわ人目を引いた。言語は未発達でオーム返しが多く、意思伝達は皆無に等しい。一体このA君をどのように指導したらよいか迷いながらも、集団学習では離席しても、ある時は無関心を装い、着席行動には賞賛を与えることに心掛けること二か月、さらに、清掃箇所、座席・ロッカーの位置、給食の係仕事の交換など自分から少しずつ切り換えができるように変化をもたせた。六月中旬ごろから離席することもなくなり、固執性がやや薄らぎ始めたころ、文字学習へと移行する。彼は自分の名前さえも全く書けない。まず、鉛筆の持ち方から、点から点までの線の引き方、丸、四角の線の結び方を。次にひらがな文字を分解した線が書けるように指導し、A君の手を支えながら一つの文字ごとに声をかけ、なぞり書きをくり返す。

一か月近くかかってやっと自分の名前が書けるようになる。それから書くことに興味を示し、一人でも机に向かって黙々と取り組んでいる。日々の指導の中で連続即時強化の原理≠ェ思い浮かぶ。生徒指導でも同じである。

夏休みの終りころ、A君の親から小包みが届く、その中の手紙に「先生、暑い最中、A男といっしょにじゃが芋掘りをしました。私といっしょき飽きずに最後まで手伝いをしてくれました。A男が掘ったじゃが芋です。少しですが食べてください」一つのことに集中して取り組める姿になったことが親以上に嬉しい。

教師冥利という言葉があるが、教育の深さを痛感している毎日である。

(県立西郷養護学校教諭)

 

遂に掌中にした店

 

遂に掌中にした店

佐川善雄

 

M君は、今日も元気で商売に励んでいることでしょう。

 

M君は、今日も元気で商売に励んでいることでしょう。

私の教員生活で初めての卒業生、四十五人の中の一人M君。小柄で丸顔、ちゃめっ気のある明るく、朗らかな性格で、クラスのマスコット的な存在でした。

中学校卒業の年、進路の決定でいろいろ悩み、相談にきたものでした。

M君は、小学校四年生の時、父親が病死し、母子家庭の子どもでした。学習成績は決して良い方ではありませんでしたが、自分の好きなことは徹底して、最後までやり通すという一面がありました。

家庭の経済的理由から就職を希望し、職業相談では、求人表の中から給料の一番高いところを見つけてきて、ここを世話してほしいと申し出ました。相談の中で、将来の希望、家族のこと、自分の個性・能力などを考え、校長先生のお世話で東京新宿の八百屋さんに決定しました。

八百屋の主人は、七十歳の高齢で、息子たちがみんな独立して商売をしており、この店は閉じたくないのでまじめに十年間勤めてくれれば、この店をあげてもよいということでした。

田舎育ちの素直でおとなしいM君にとって、東京での十年間の商売の仕事が勤まるかどうか、不安もありましたが、M君がやってみるというので、一

 

 

 


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