教育福島0136号(1989年(H01)01月)-031page

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心のひきしまる思いがする。ひとりの子どもの大切さを実感した。子どもの幸せのため、本校との連絡を密にして、分校の教育活動を進めていきたい。

(いわき市立小川小学校教諭)

 

子どもたちは私の鏡

本間洋子

 

うか。などと日々の実践を常に評価し、反省させられることが多いのです。

 

四歳児、はと組二十三名の新任教師です。まだ九か月しか経っていないのに「親の言うことより、先生の言うことはよく聞く」と話すお母さんたちの言葉が、私の心に重くのしかかってくるのです。それほど、子どもたちにとって大きな存在である教師なのに、それに応えられる保育指導をしているのだろうかと思うと、不安がつのるばかりです。四歳の子どもたちは、教師を批判したり、不満を言ったりはしません。「おもしろい?」と問いかければ「おもしろい」とオウム返しに答えてしまうのです。そんな環境に甘えて、子どもたちに失礼なことをしていないだろうか。忙しさにまぎれて、手を抜いてはいないだろうか。などと日々の実践を常に評価し、反省させられることが多いのです。

ある日のこと、保育室でオリンピックの中継を見ていたとき、「この前のオリンピックは」と子どもたちに話しかけようとしたのです。四年前は、生まれたばかりの赤ちゃんであり、一瞬はっとさせられ、苦笑してしまったのです。

子どもたちの成長、発達には個人差があると思っていても、同じ年齢の子どもたちと一緒にいることが多いため、四歳児はこれ位、五歳児はこれ位と、自分の目あてをもって子どもたちをとらえがちです。生まれてから、まだ四年の子どもたちであると思えば、高度なことを教え込もうとするよりも、まず、人間としての基本的な生活習慣を、しっかり身につけさせることが大切です。そのために、根気強く、繰り返し体験させながら取り組んでいかなければならないと思うのです。

十月半ばのこと、子供たちが縄とび競争を始めたのです。いろいろなとび方ができる子どももいるが、半数位は思うようにとべなかったのです。そのうち、幼稚園や家での練習が実を結び、ほとんどの子どもたちがとべるようになったのです。「とべた!」と言っては喜び、得意顔で何回もとんでくれる子どもたちの表情を見るたびに、私の鼓動は高まり、目頭が熱くなってくるのです。子どもたちが心から満足できる体験を見逃さずに、共に喜び、励ましてやれる目と心を持つ教師になりたいと、何度も思ったのです。

子どもたちは、本当に私を映す鏡です。私が楽しくしていると、子どもたちも楽しそうに活動してくれるし、私が慌てていると、子どもたちも落ち着きをなくしてしまうのです。私の意欲は、そのまま子どもたちの意欲へと伝わっていき、私が元気のない日は、教師として失格の日です。

幼く純真な子どもたちの言動から、たくさん教えられることがあるのです。幼稚園教育の使命感と深い教育的愛情を持ち続け、がんばるつもりです。

(下郷町立下郷幼稚園教諭)

 

考える楽しさを

遠藤隆

 

今の子どもたちは自分で考えることを面倒がるという。本当だろうか。

 

今の子どもたちは自分で考えることを面倒がるという。本当だろうか。

四という数を四つ使い、演算操作をほどこして一から十までの数を作っていくという問題がある。四年の教科書にも載っているが、高学年を担任すると必ず子どもたちに提示することにしている。そこで子どもたちはどのような反応を示すか。「がんばってやりなさい」とか、「集中して」など口癖のようになっている言葉が全く必要がない。そのくらい子どもたちは集中し、喜々として問題に取り組む。休み時間になっても「先生できたよ、これでいいんでしょう」と寄ってくる。

この問題は決して楽に解ける問題ではない。必ずどこかにじっくり考える点が含まれている。それでもほとんどの子どもたちは、途中でやめようとはしない。

このような問題はトピック的なものであり、系統だったカリキュラムのなかで大きな顔で座る場所は少ない。しかし、このような問題を一生懸命に解こうとしていることから、子どもたちは決して考えることを面倒がったりしないことを教えられる。

そもそも、自分だって大きな顔で、「考えることが好きで、得意な子どもでした」などとは言えない。算数・数学の学習とは、“公式を暗記する”ことではなく、“論理的に考える”ことであることを認識したのは大学生になってからだった。算数・数学に限らず、学習というのは暗記することと捉えていた自分は、高等数学といわれる

 

 

 


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