教育福島0138号(1989年(H01)04月)-025page

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随想 ずいそう

 

わが師

わが恩

井本昌夫

 

た。とり急ぎお伺いすると、先生は奥様の弟君と沈痛な面持で着座していた。

 

四月の初め、久しぶりにいわきの義父宅に宿した。その日、新設の私大に転出されていた恩師を表敬訪問した。暖かな土曜日の午後とて、先生は奥様と買い物にでも出られたのか、静まっていた。夜分ご自宅に電話をかけてみると、先生が直接電話口に出られた。病院から戻られたばかりであった。その時初めて奥様が再入院されたことを知った。とり急ぎお伺いすると、先生は奥様の弟君と沈痛な面持で着座していた。

奥様は昨年大病を克服し、再生したことに心から感謝し、この一年をとても大事にされて生きてこられたのであった。元気な頃のボランティア活動は無理であったが、家事のかたわら岩波文庫百冊本のうち四十冊近くを読了し、その読後感をノートにしたためられていた由。さすがに最近の筆跡は病床にあって乱れがちであったようである。先生からお話をお伺いしながら、にぎりこぶしを固めて身を切る痛みに堪えている奥様のお姿を想像し、いたたまれない思いがした。私自身二年前、不治の病で母を亡くしていた。

聡明な奥様と大学人である先生の平静なこれまでの生活ぶりを拝見していると、脈絡は全くないのだが、漱石の小説『こころ』の「先生」と「奥さん」のイメージと重なり合ってしかたなかった。

先生との出会いは高校二年生にさかのぼる。「教師はしがない稼業だが」と独特の口調で切り出すのが先生の口癖であった。私のどこをどう見込んだのかわからないが、高校三年生の進路決定の際、教師になることを勧めた。私は真剣な面持で師の顔に向って言った、「私でも教師になれるのでしょうか」と。その時の先生の返辞は残念だが、よく覚えていない。それ程私は余りにも自分のことばかり思いつめていたのである。例の口癖を枕詞にして、「やりがいのある仕事なんだ」などと諭してくれたのかもしれない。私の性行が真面目であると見てとったのか、浪人など論外の母子家庭の内情を思いやってのことなのか、いってみれば、教育学部なら何とか入れると判断されたのだろうと思う。

私が高校教師になって十年目であったろうか、先生から「今度君の近くに行くことになった。よろしく」とおたよりがあった。先生ご夫妻を平駅頭に出迎えた。開口一番、うまくいっているかと気づかってくださった。先生は高校時代の私の言葉を忘れていなかったのだ。心にしみてありがたかった。

新設高校に赴任し、一期生を受け持った時、かれらに対して既成の有名高校と比較する言動は厳に慎しもうとした。また会議で教師姿勢を問われるような時は努めて発言するようにした。すべて先生から教えていただいたものばかりである。先生との出会いは、私にとって幸運としか言いようがない。「神のなされることは、みな、その時にかなって美しい」。奥様がノートに書き遺された言葉であるという。

(県立福島東高等学校教諭)

 

豆腐三昧

島村宗忍

 

喉にしみ透る冷たい水の味は、格別で何物にも換えがたいものがありました。

 

過日、所用で奥会津へ行く機会がありました。その道中で休憩のため道端に車を止め、ふとあたりを見渡すと、残雪の間から蕗のとうが芽を出し、遅い奥会津の春を体いっぱいに表現していました。そのかたわらに小さな泉があり飲んでみましたが、長時間車を運転したためか、渇いた喉にしみ透る冷たい水の味は、格別で何物にも換えがたいものがありました。

自然の水もさることながら、私たちが日常口にする食べ物にも、それぞれに独特の味があり、私たちの心をうるおしてくれます。

子どもの頃、私を可愛がってくださった禅寺の老僧より、ある言葉を引用して「豆腐の味がわかる人になりなさい」と教えられたことがあります。その時は、その意味が良く理解できま

 

 

 


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