教育福島0138号(1989年(H01)04月)-026page

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せんでしたが、歳を重ねるにしたがって、味の本当の意味が少し理解できるようになった気がします。

豆腐の生い立ちを考えてみますと、大きな鍋でゆで揚げられ、重い石臼で身を粉にされ、こまかい袋の目で裏ごしをされた上に冷水にて身を清め、やっと一人前になります。その数々の苦労と努力には頭が下がります。

その姿は一見して四角四面の仏頂面をしていますが、決してわからずやの頑固者ではありません。しかも触れば崩れてしまいそうな身ではありますが、身を崩さないだけのしまりをきちんとわきまえています。よく物のたとえに「煮ても焼いても食えないやつ」という言葉があります。それに反して煮物にしても良く、焼いても良い。味噌汁に入れられても、煮えたぎる油で揚げられても、つぶして和え物にしても、寒中の夜風に身を晒して凍らせても………、どんな過酷な環境の中にあっても見事に順応し、自分の持ち味を遺憾なく発揮してくれます。

また、豆腐ほど相手を選ばない者は有りません。おでんの鍋に入っては、チクワやコンニャクと協調を保ち、煮しめに入っては、大根や芋たちと仲のよい友達となり、すき焼きにあっては牛や鶏と相交じって調和し、寄せ鍋においては、魚の王である鯛に混じっても一歩もひけをとらないなど、数々の器量を持ち合せています。

豆腐が食膳に顔を出す度に、多くの功徳を味わいながら、自分の未熟さを痛感し、反省させられずにはおられない昨今です。

ふだん何気なく口にしている豆腐ですが、ちょっと目先をかえてみると数々の人の道を示してくれます。「個々円成」という言葉があります。己事を究明することによって、人格の陶冶をはかり、その完成をめざすことですが、人を教え導く立場にある人にとって、自分のことは勿論のこと、児童生徒のみならず、身の回りにある全ての物事に対しても、個々の持つ本質を洞察し、観ぬく目を養い、人や物の持つ本質を最大限に生かし、伸ばしていけるようにすることが出来るような努力を怠ってはいけないと思います。

今日も食膳に並んだ豆腐を味わいながら、豆腐の功徳と二度とない自分の人生をかみしめ、見つめ直しております。

(白河市立白河第一小学校主査)

 

読める本に限りはあれど

 

読める本に限りはあれど

読みたい本は限りなし

阿部千春

 

るわけじゃないんです。読める本にも、食事の回数にも限りがあるんですよ」

 

「わたしだっていつまでも生きていられるわけじゃないんです。読める本にも、食事の回数にも限りがあるんですよ」

 

一冊の本を手に取るきっかけは、人によって、或いは本によって様々だろう。人から薦められた、広告で見た、etc。一冊の本がさらに別な本への興味をかき立てるのは言うまでもない。十人いれば十通り、十冊あればやはり十通りの、出会い方があるにちがいない。"本"へ至る道筋は多様である。私の場合歌の一節が漫画が、TVが、きっかけとなることもある。それに映画、主に洋画だが、正確には、観た映画ではなく、観ることができないでいる映画である。これは変わったきっかけだろうか。普通は実際に観た映画に関心が向けられるとすると、確かに奇妙である。さらにそのきっかけが映画からどんどん展開していく傾向がある点、多少風変わりではある。例えば、映画を観る。ある俳優を気に入る。当然、その俳優の他の出演作を観たい。だが昔の映画を観る機会はなかなかない。つのる欲求不満を、ではどうするか。ここでいきなり映像文化を活字文化に乗り換えるあたり、職業柄、エラい、と言うべきか、まず原作を探してそれを読むのである。原作は大抵おもしろい。するとその原作者の他の作品も読みたくなる。さらに読み漁る。そのうちにその作者の虜になる。その作家についての研究書などにも食指が動く。さらにはその作家が影響を受けたり、与えたりした作家達も気になってくる。それらを読んでおもしろいと、あとは同様のパターンでイモづる式に……。こうなると事態はもうどろ沼。気がつくと発端となった映画はとっくの昔にどこかへふっ飛んでいるのが可笑しい。この恐るべき事態に深入りする前に危険を察知し、適当なところで身を引けばいいのに、この手の状況下ではそういう理性は何故か働かない。まあ、めったにそこまで行かないにしても、常にちょっとは難儀する。最初の原作にたどり着くまでが結構な道のりだったりする。古本屋を足を棒にして巡ることもある。そのくらいならまだいい。未邦訳となると、(!!)な決意で原書に立ち向かうはめになる。原書を入手するのが、また容易でない。

 

 

 


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