教育福島0138号(1989年(H01)04月)-027page

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こうなるとお目当ての作家とその周辺を読み込むことは、一年二年の話ではなく、十年二十年の構えになる。

何がそこまで私をつき動かすのか。そこに在るのは一種の熱意なのだが、これは口では説明できない。“本”と出会う素晴らしさを知っている人ならわかるだろうが、出会いの、その喜ばしさは言葉では言い尽くせない。それほど喜ばしい。その喜びへの期待、予感が、私をつき動かすのかもしれない。多分そうなのだ。

さて、十年の覚悟でもって、一つの読書の楽しみを追うとなると時間はいくらあっても足りない。読みたい本は次から次へと限りがない。まさに人生「読める本にも、食事の回数にも限りがある」。冒頭の引用は米国の作家レックス・スタウトの創造した名探偵、ネロ・ウルフの弁。けだし名言。読書家でもあるが同時に比類なき美食家であるウルフが、にもかかわらず“食”よりも“読書”を先に挙げたところが何とも嬉しい。

人は様々な目的で本を読む。楽しい読書もある。そうでない読書もある。が、楽しみたる読書は、人が、かなりのエネルギーを費すに値する行為ではないか。何と言っても“楽しみ”なのだ。読んでいる最中も楽しい。読んだ後も楽しい。そうして豊かな何かが、少なくとも楽しい思いが自分の内に残る。生涯残る。老いて、死ぬまで、一生の楽しみなのだ。おまけに図書館に行けば本は無料で借りられる。こんな素敵な楽しみをのがす手はない。

最後にもう一度、ウルフ氏に御登場願おう。助手のアーチー・グッドウィンとの会話である。

「『それから本が届いた。昨夜、私はそれを読んだ。』『何だって、読んだんです?』『わかっているではないか。本だから読んだのだ。』」

読書家の真骨頂、ここに在り。

(県立図書館主任司書)

 

教育の創世時代

菊地 剛

 

が、この機会に新制中学発足当時を回顧してみたいと思い、筆をとりました。

 

私ごと、この度四十一年間の教職に別れを告げましたが、この機会に新制中学発足当時を回顧してみたいと思い、筆をとりました。

昭和二十三年に私の奉職しました若松第一中学校は、新制中学校の一、二学年の他に、若松日新青年学校の第三学年が残っておりました。校舎は、その青年学校のために建築された独立校舎を使用できる恵まれた環境にありました。ですが、戦時中に建てられた校舎ですので、お粗末な建物でした。外側の窓ガラスは切り貼りで紙テープで補強され、廊下側の窓は障子張りでした。夏場は障子紙が破れるのを防ぐため、取り外してある状態でした。

テストに使う更紙も不足気味で、一度使用したものを、名前の部分を切り取って裏に印刷して使うといった有様でした。食糧も不足で、弁当も持って来なかったり、持って来てもサツマ芋だったりして、皆、新聞紙で隠しながら食べていたものでした。

このような貧困と混乱の時代に、これまで経験もしなかった民主主義教育を行うことになったのであります。

年輩の先生方は遠慮勝ちとなり、若い者が主役となったわけです。

職員会議は当然のことながら活発なものとなりました。夜の九時、十時となるのはザラでした。一つの事を決めるにも、先ず民主主義とは何かから始めるわけです。方針も慣例も無いに等しいわけですから、結論が出るまではお互いに手探り状態で延々と会議は続くわけです。全員で意見を出し合って納得できる線が出るまで討論し合ったわけです。

運動会や学芸会のあり方についても無から出発したのでした。生徒会、PTAの創設でも、その趣旨から始まって、会則作りまで全く忙しい毎日でした。

生徒達は貧困にもめげず、活発に活動し始めました。生徒総会時や、役員選挙等、生徒達にも経験の無い事でしたが、順応が早く、堂々と意見を述べるようになり、我々教師側としましても遅れを取らないよう必死でした。

授業やクラブ活動では、元気一杯の生徒相手に「のびのびした自由な雰囲気の中で、各教師が、それぞれの個性を発揮したものでした。

貧困な時代にもめげず活発に活動した当時の生徒達が、今でも懐かしく思って毎年会合を続けているのを見るにつけ、我々の苦労は、充分過ぎる程報われていると感じております。

現在のような豊かな時代に、進学、非行、精神の貧困等々教育上の難問が増加している事を見る時、ある時代の教師と生徒の自由な、そして暖かい触れ合いが懐かしく思われてなりません。

諸先生方のご活躍を期待申し上げて私の回顧談といたします。(県立若松女子高等学校教諭・平成元年三月退職)

 

 

 

 

 


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