教育福島0138号(1989年(H01)04月)-029page
とまで言われ、無気力、無感動、無関心………な現在の子どもたちが多くなっている。その原因は、多種多様である。家庭におけるテレビやゲームの普及は、友だちと遊ぶことを知らない一人っ子を育て、他の人を思いやる心を失わせてしまったのである。生活環境の激しい変化で、夏に食べられるべき野菜や界物が、温室栽培で一年中食べることができるようになり、冷暖房の設備で寒暖の差が感じられなくなったりして、季節感が見失われてしまった。更には恵まれた自然にあまりにも慣れ過ぎ、変わりゆく季節の変化や野に咲く一輪の花の美しさにも、感動することを忘れてしまったのはまことに残念である。
しかし、南会津の古人の築いた歴史は動かず、美しい自然を背負って育った私は、故郷に人一倍の誇りを持っている。このような世界の中で、若竹のようにすくすくと成長する子どもたちに、私同様、故郷の歴史の重さと自然の美しさに感動する心、思いやりのある心を育てていくことが、私の役目ではないかと思う今日このごろである。
(下郷町立旭田小学校教諭)
○○のある教育
金谷 哲
「○○のある教育、この○○の中に教師としてどんな言葉を入れますか」これは、十二年前の新採用教員研修会で、当時、義務教育課主幹であった宇田哲雄先生から受けた講義の中の一言である。その時、私がすぐに思いついたのは、「思いやりのある教育」ということであった。
振り返ってみると、そのころは教職に就いたばかりで、子どもの実態をよくとらえていなかった。
また、子どもたちの親との年齢差も大きく、自分の子どももいなかったことから、学級の子どもたちを私の考えていた理想像に近づけるように指導しようという気持ちが強かった。
そのようなことから、「思いやりのある教育」を目指し、一日も早く子どもたちに身につけさせたいとがんばった。ところが、理想的な教育は、新米の私に一朝一夕にできる術もなく、どうしてこんなに考えたようにいかないのだろうかと悩んだものだった。今、当時を思い起こしてみると、子どもたちを自分の考えた枠の中に、無理にはめこもうとして急ぎすぎたのではなかったかと反省している。
経験十二年目にして、私も担任している子どもたちの親の年齢に近づいてきた。中には、同年齢の親もいる。
また、私自身の子どもも小学生になっている。子どもの成長の様子も我が子を育ててみて理解できるようになってきた。更に、親の子どもに対する考えや願いなどについても以前よりよくとらえることができようになった。
親としての今の我が子に対する願いは、健康であってほしいとか、素直に育ってほしいなど様々あるが、特に強く願うことは、すばらしい人々と出会って、あるいは、雄大な自然に触れて心をみがき、個性を伸ばしていってほしいということである。
子どもに限らず、人間すべて生まれりいての素質も異なり、育つ環境も違っている。その子どもたちを育てる教師としての仕事は、子どもたちを教師の思うような枠にはめていくことではなく、それぞれの子どもが持っているすばらしい個性を伸ばしていくことだと思う。我が子にも良いところを見つけてくれて、そこをほめてくれる先生に、そして、よかれと思って行ったことを認めてくれる人々にめぐりあってほしい。
私も、一教師として、子ども一人一人をよく見つめて、それぞれの個性をしっかりとらえ、それをほめてやることのできる教師になるよう努力し、その中で思いやりの心も育てていきたい。
教職について十二年目の私にとって「○○のある教育」は、一人一人の子どもが生き生きと個性を伸ばしていくことのできる教育である。
子どもは担任を選べないのだから、この先生が担任でよかったと親にも子どもにも思われる教師になるように心がけて、一人一人の子どもを大切にして、これからの教育に励みたい。
(双葉町立双葉北小学校教諭)
コンピュータとの対話
佐藤 正
今回の改訂学習指導要領の総則で、配慮事項に「教育機器の適切な活用を図る」ことが述べられている。
おりしも、本年、我が校がコン