教育福島0138号(1989年(H01)04月)-031page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

に便利な二十八ミリレンズも紹介された。そのお陰で、授業研究の撮影に威力を発揮し、自分の授業改善の資料として大きく役立った。

その後、天文写真にも心を引かれるようになった。そのきっかけは、天文同好会の大野さんとの出会いである。写真だけでなく、彼の天文に対する熱意に頭の下がる思いをした。

天文写真は時間・技術両面より遅々として進まないのが現状である。

自分の写真歴を振り返ってみた時、多くの人達から知らず知らずの内に教えを受けていることが分かった。自分でイメージしている事が実現できない時、自分の殻に閉じ込もってしまっている時等に教えて頂いた事が力となり、今の自分の力となっているわけである。

(福島市立福島第四小学校教諭)

 

放下着

 

放下着

菅野健一

 

動した言葉」という題で書かれた生徒作文の中に出てきた言葉の一つである。

 

「放下着」−耳慣れない言葉であった。「感動した言葉」という題で書かれた生徒作文の中に出てきた言葉の一つである。

その作文によると、静岡県にある臨済宗のお寺に行き、そこで住職である和尚さんからいろいろなことを教わり、その時に知った言葉であるという。その意味とその意味のもつ重さを知り大変感動したということであった。

それには次のように書かれていた。

放下着−「褒められたい、認められたい、褒美をもらいたい、などと思う気持ちを全部捨てること」

人間は自分で縄をなって、自分自身を縛っている。一度登った梯子はもういらない。梯子をかついで歩くので、あちこちにぶつかるのだ。そして、雑巾や石けんのように生きなさい。そうでなければ人間に生まれなかった方がよかった。人間に生まれたくとも、生まれてこれなかった動物、虫や鳥たちもいる。アリ一匹だって苦労して生きている。そんなことも知らない人間は動物たちにうらまれている。

この文章を読み、私もこの生徒と同じように感動を覚えた。それは、この生徒が感じたように、今の自分の生き方に対する思いであった。ただ、それは素晴らしい考え、生き方を知ったという思いではなかった。「梯子をかついで歩くので、あちこちにぶつかるのだ」どこかで聞いた言葉であり、頭の中では知っていた言葉である。しかし、そのようなことを忘れていたのである。人間として生きる、今生きているという思いを、実感として気づいていなかったということだった。毎日の生活を目先のことにとらわれ、慌ただしく過ごしていたということではなく、常に人間として考えなければならない大切なことを忘れ、毎日を送っていたという思いであった。

自分は人間として生まれてきて、どう生きるのか、なにをやるのか。その答えは幾つか用意され、十分考えたこともあることだった。「放下着」その言葉の意味する生き方も、よく知っていたはずだった。そして、自分の思い描いた生き方を毎日の生活の中で実践していたのも事実であった。しかし、生きている「人間として生きている、そのことを考えることがなくなってきていた。「人間は動物たちにうらまれている」その言葉が胸に響いてきた。

「放下着」この言葉を人生の書や仏教に関する本で知ったとしたら、なにも感じなかったかもしれない。人生を考える知識の一つとして受けいれるだけだったかもしれない。人生をほんのすこしだけ歩み始めた生徒が、生きるということを真剣に考えている。そのことを知り、強く心を揺さぶられたのであった。生徒から学ぶ、そんな貴重な体験を与えてくれたこの文章に心から感謝をしたい。

(郡山市立喜久田中学校教諭)

 

栽培学習をとおして

遠藤治一郎

 

「う一ん、うまい」

 

「う一ん、うまい」

「俺の家では、バターと醤油で味つけするよ」

「とり肉が入るともっとうまい」

「ぜいたくいうな」自分たちで育て、収穫したジャガイモを試食中の食欲旺盛な三年男子の声に思わず顔がほころぶ。

私の勤務する伊達中学校は、サクランボ、桃、リンゴなどの果樹園に囲ま

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。