教育福島0139号(1989年(H01)06月)-024page
心は愛で育つもの
大竹洋子
「先生、うちの子は勉強ではパッとしなかったけど、遊びでは誰よりも目立ったでしょう。元気で、学校が楽しくてしかたがないのだから、これでいいんだって、主人ともよく話をしていたんですよ。でもあの子のおかげで毎日の夕食どきが、それは楽しいんです。おじいさんもおばあさんも一緒になって、学校のことから、あれこれと家族六人で話がはずむんです。中学生になっても、家族の団らんだけは、大事にしていきたいと思います。」
二年間担任したA男の母親が、卒業前の懇談会で話したことである。
明るくて、行動的で、思いやりのあるA男を育てた家庭の温かさがしのばれて、心が和んだ。
話は変わるが、教育相談の仕事に携わって二年になる。その間、数多くの問題に接した。相談内容は、種々様々であったが、数的には、登校拒否に関するものが最も多かった。
相談を受ける度に、「なんとかしてやりたい」という思いに駆られるが、実力が伴わない自分に、いら立ちを覚え読けた二年間でもあった。そんな中で、いつも感じていたことに"子どもたちの内面的な力の弱さ"がある。がんばる・粘る・悩む・耐える・考えつく・・・というような自分自身とのたたかいが弱過ぎるのである。そのために”自分〃が確立できず、自分の確たる意志をもたないまま、周囲に流されたり、孤立してしまっているのである。
そんな子どもたちの親の養育態度は過保護・支配的・無関心などであり、共通して、物質第一主義的な考えが強く、心を育てる面の努力が極端に弱い。
まさに、現代社会が抱える問題そのものが、子どもの問題行動の背景に、はっきりと見られることに驚く。
物質的豊かさに反して、人と人との結びつき・親子の絆など、心の豊かさは、逆に貧弱になってきている現象の中で、最も大きな影響を受けて、傷ついているのは、適応力の乏しい子どもたちであることを、大人はもっと認識すべきである。
繊細で傷つきやすい心の持ち主であるが故に、自分を理解してくれようとしない周囲へのやむにやまれぬ子どもなりの抵抗、自己主張をしている、それが問題行動なのではないだろうか。
心を病む子どもたちは、切ないまでに、家族や教師、友だちからの、心に響く愛情を待っている。だから、親や教師がまず、子どもの心の"小さな声・小さなサイン"を正しく受け止めることから努力し、信頼される大人として、病んでいる心に響く働きかけをしていってほしい。
心は愛で育つもの。追い込んだり、重圧をかけて育てるものでないはず。大人の身勝手から子どもを解き放して本来の伸びやかさにもどしてやること、これが、周囲にいる我々大人が、今すぐにやらなければならないことであることを、声を大にして訴えたい。
(いわき市立湯本第一小学校教諭)
個性を生かす
大楽宣和
今年もまた、裏山にカタクリ草の花が咲き乱れ、春到来を感じさせるすばらしい季節を迎えた。
一年生が、母親に手をひかれ、新しいランドセルを重そうに背負い、期待に小さな胸を膨らませて入学してきた。この子どもたちの健やかな成長を願わずにはいられない。と同時に、教職に携わるものとして、その指導を考えたとき、職責の重さを痛感する。というのも、学校教育は、その在り方によって、子どもらの一生を左右しかねないほどの役割を担っていると言っても過言ではないからである。
学校教育のねらいはたくさんある。新学習指導要領において、特に重視されていることの一つに、「基礎的・基本的内容を、子ども一人一人に確実に身につけさせる」ことがある。しかし、私自身の実践を振り返ってみれば、ややもすると教師主導型指導になりがちで、子どもを「できる」「できない子」というように、子どもの能力を固定的にとらえ、その子の持っている能力や、個性を十分に生かしてきたとは言い難い。今にして思えば、「個性を生かす」ということは、子どもを固定観念を持ってとらえることではなく、子どもの持っている、興味や関心、学力、能力、特性などを多面的にとらえ、それらを大きく伸ばしてやることであった。たとえ、学習がよく理解できない子どもでも、優しさがわかるとか、どんな小さなことにでも感動するといった、豊かな感性を持っている子どもがいる。一人の人間の中に、「二人の自分」が存在しているのである。我々教師の役