教育福島0140号(1989年(H01)07月)-023page

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随想

ずいそう

父

菅原 信治

 

小学校の校長をしていた父は、教師になることを拒み農業を選んだ。

 

小学校の校長をしていた父は、教師になることを拒み農業を選んだ。

 

農業に関しては素人のうえ、雑木を切り、開墾しながらの畑作は容易なことではなかった。「一年の計は元旦にあり」と元日から駆りだされ、雪を払いのけ、唐鍬での開墾をやらされた。

校長であった父の権威は絶対であり私たち兄弟は主人の命令を待つ猟犬のようだった。さつまいもの苗を植えるとき、竹の切り株に足を刺し、その私をおぶって山を下りるとき母もまた足を刺した。ざまみろという絶望感に似たものがそこにはあった。

陸稲も、そばも、豆も不作だった。わずかにかぼちゃ、さつまいもの収穫があっただけで、母が古着の行商をはじめたのも生活上やむを得ないことだった。

農家の長男だった父は、実家を姉に譲り結婚後朝鮮に渡った。昭和五年のことである。外地手当がつくからだったと母に聞いたことがあるが、当時としては、一大決心を必要としたことだったろう。母も教員であった。

末っ子の私がものごころつくころには、伯母を内地から呼び旅館を経営させていたし、借家も数軒もち、果樹園も管理するほどの、いわゆる外地における成功者であった。

 

終戦が父の地位を、財産を一夜にして失わせた。終戦の十一月に、闇船で着の身着のまま引き揚げ、その年の暮れには、荷馬車にわらと家財道具を積み開拓地に入植した。電灯もない堀立小屋であった。わらは板でかこった床に敷き、布を覆い、わらぶとんとなった。

父は酒、たばこを好んだ。たばこがないときはいたどりの葉や、豆の葉をきざんで吸ったりした。夕食には、焼酎に砂糖を入れて飲んだ。二杯目には「もうちょっとここのところまで」とコップに指で目盛り、一弁びんから私につがせたりもした。

私が大学に入学してすぐ、父は入院した。胃がんの末期であった。退院して三か月で亡くなった。

 

五十四歳という父が死去した年と同じになったいま、開拓地での生活が、苦しさだけでなかったことを今さらのごとく思いだす。十歳から十五歳までのわずか六年間だけだったのに、なんと充実した日々だったのかと。

こきざみに砂を押しあげながら湧き出る浅井戸の冷たさがあった。

カラン、カランと山の下で鳴らすキャンデー売りのカネ音と、その甘さが、山あいをわたる風とともに、流れ出る汗をひいてくれた。

校長先生の坊ちゃんで終っていたと思うとき、すばらしい体験を与えてくれた父に感謝する。

そして今年成人になる息子に、なにひとつ試練を与えられなかった親としての不甲斐なさを痛感するのである。

(県立相馬農業高等学校教諭)

 

保育雑感

渡辺 尚子

 

た子どもたちは、現在、当時の私と同じ年齢になっているのには驚いています。

 

「先生」と呼ばれるようになって早いもので十数年が過ぎようとしています。その間に出会った子どもたちの数は五百人以上となり、初めて採用になった幼稚園で受け持った子どもたちは、現在、当時の私と同じ年齢になっているのには驚いています。

そのような私にも、自分が園児だった幼稚園時代の思い出が残っています。初めて作ってもらったサンドイッチをカバンに入れ、友だちと一緒に食べることを楽しみにして登園したその日、家の都合で早退をしてしまい、みんなと一緒に食べることができませんでした。それからしばらくの間は、カバンを開けると、みんなと食べることのできなかったサンドイッチのにおいが残っているような気がしました。

もう一つは、交通教室の時です。道

 

 

 


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