教育福島0140号(1989年(H01)07月)-024page
の歩き方について、担任の先生から、「右側を歩きましょうね。右の耳を持ってみましょう」と言われ、家までの道筋を、耳たぶをしっかり握って帰りました。熱くなった耳たぶの感触と先生の言葉を、長い年月を過ぎた今も、昨日のことのように覚えています。
忘れてしまいそうな出来事ですが、私にとっては大切な幼稚園の思い出です。そして、大人にとって何気ない出来事や態度でも、子どもたちにとっては印象に残ることがあるということを自分自身に言い聞かせながら、子どもたちと一緒に、新しい思い出作りを楽しんでいます。
先日も、こんなことがありました。
「先生、ザリガニが、はさみを持ち上げていたよ」と教えにきたS君。
「S君に負けないくらいの力持ちだよ、と見せたかったのかな」という私の言葉に目を輝かせて、友だちに教えに行きました。
製作になると、不安そうな顔になるM子ちゃん。
「M子ちゃんの鯉のぼりは、細かい所まできれいに色が染めてあるわね」と声をかけたその日、迎えに来た母の姿を見つけ、「お母さん、鯉のぼり見せてあげる」と走っていきました。
障害をもっているU子ちゃんに、
「トイレに行くの?一緒に行こうね」と手をひいて行くE子ちゃん。やさしいお姉さんの顔でした。U子ちゃんを通じて、友だちへのやさしさや、いたわりの気持ちがはぐくまれていることを感じ、ほほえましい姿を見るたびに胸が熱くなります。
そのほかにも、たくさんのできごとが毎日の遊びの中で見られますが、その時の子どもたちの輝いた瞳、うれしそうな表情、驚くような発想やつぶやきに触れた時、子どもたちと出会えたことをうれしく思います。
そして、子どもたちにとっても、私と出会えたこと、さらに友だちと出会えたことがよい思い出となるように、毎日の保育の中での触れ合いを大切にして、心あたたかな態度で、子どもたちに接していきたいと思います。(須賀川市立稲田幼稚園教諭)
あいさつに思う
根本 喜美
年老いた両親が、久しぶりに訪ねて来た。さしたる用件があるわけではないことがわかったので、四方山話は車の中でと考え、父がなつかしむであろう昔勤務したことのある小学校や周辺をドライブした。その変わりようや、昔ながらの美しさを回顧する話に花が咲くごとに外出の企画に満足していた。
昼時となったので、父の好物の天ぷらで名を売る店に行った。駐車場に車のないのに不審を懐きながらものれんを分けると、二、三人の人が忙しく働いていたが、元気な声で迎えてくれた。美その後、主人らしい人が出て来て、
「すみません。今日は、仕出しだけでお店は休ませていただいているんです。誠に申し訳けありません」
と、ていねいな言葉でことわった。残念だったがそこを出て、すぐ近くの食堂に入った。先客が三組程あったが、みんなテレビを見ているなどして静かであった。
「いらっしゃいませ」
と、若い娘さんが恥ずかしそうに小さな声で言って、お茶を持って来て注文を受けて行った。この店には、三、四人の従業員が働いていたが、出入りする客には何も言わない。しばらく待っていると、注文の品を老姿が運んで来たが、何も言わずテーブルの上に置いて行った。「おまたせしました」の一言もなかった。
味はよかったものの思いの残るまま、帰りにレジで支払いをした時、「ありがとうございました」の声があったが単に音でしかない。機械的に流れてくるだけのあいさつには深いショックを受けてしまった。
心のこもったあいさつは、人と人を結び付け、ふれ合いを深め、友情、思いやり、感謝の心を深めていくものだと思う。心のこもったあいさつに接すると、人の美しさを感じ、そういうあいさつに出会うと相手の心の豊かさが感じられる思いがするのはだれもが知っている。
父と母は、車中ではじめの店がすっかり気に入ったと言った。やっぱり思いは同じだった。ことわりのあいさつを受けただけだったのに、お互いが相手を認め合い、受け入れられる思いがしたのではないだろうか。
あいさつは、自分の心の健康、心のゆとりのバロメーターの役になっていると思いたいのである。
これが、心のこもったあいさつだというものはないかも知れない。だから言われて出来るものでもないのかも知れない。相手を認め、相手に認められ自分の生活を自ら律することにより、